自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい2
キリスト教の集会において、肩書きで人を区別することの不正については、ヤコブが糾弾している。
「私の兄弟たち。あなたがたは私たちの栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持っているのですから、人をえこひいきしてはいけません。
あなたがたの会堂に、金の指輪をはめ、りっぱな服装をした人がはいって来、またみすぼらしい服装をした貧しい人もはいって来たとします。
あなたがたが、りっぱな服装をした人に目を留めて、「あなたは、こちらの良い席におすわりなさい。」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこで立っていなさい。でなければ、私の足もとにすわりなさい。」と言うとすれば、あなたがたは、自分たちの間で差別を設け、悪い考え方で人をさばく者になったのではありませんか。
よく聞きなさい。愛する兄弟たち。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者とされたではありませんか。
それなのに、あなたがたは貧しい人を軽蔑したのです。あなたがたをしいたげるのは富んだ人たちではありませんか。また、あなたがたを裁判所に引いて行くのも彼らではありませんか。
あなたがたがその名で呼ばれている尊い御名をけがすのも彼らではありませんか。」(ヤコブ2・1−7)
組織に勤めていた時に感じたのは、「正直に失敗を認めると出世できない」ということだった。
上のほうに行く人は、責任転嫁がうまい人だった。
これは会社も教会も変わらなかった。
教会にも、いざ自分の地位が危ういとなると、平気で嘘でも何でもついて人を貶める人間がいた。
聖書では、「出世する人は、こんな人間ばかりだ」とは書いていない。
ヨセフは、正直に上司に仕えることによって出世した人である。
だから、「上に立つ人間にはろくなやつがいない」というつもりはまったくない。
しかし、だからといって「上に立つ人間はみなすばらしい」とも言えない。
聖書が述べているのは、「上に立つかどうかで人を差別するな」ということである。
クリスチャンは、世俗的な価値観を教会に持ちこんではならない、ということだ。
人生の目的を出世に置くのは愚かなことである。
出世は水ものである。実力があっても必ずしも成功するとは限らない。
出世は結果と考えるべきだ。その過程が大切だと頭を切り替える以外にはない。
人に依存せず、独立した思考をする人は、結果にこだわらない。
一流の力士に「こんどの取り組みはタイトルがかかっていますね。」と尋ねると、「自分の相撲をするだけです。」と答える。
大記録は結果であり、その過程のほうが大切だと考えているからだ。
キリスト教の中に「人間的評価基準」を持ち込むことは誘惑であり、罠である。
教会やクリスチャンが進化論と妥協してきたのは、世俗の学界からも尊敬を得ようとしたからである。
今でも6日創造説に抵抗があるのは、「え〜、世界が6日で創造されたぁ〜??バカじゃないの??」と世俗の科学者と彼に従う人々に言われたくないからである。
キリストにも世俗にも受け入れられるなんて不可能である。
どっちかを犠牲にしないと。
2005年6月3日
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