聖書を最終権威とせよ
「イエス・キリストしか解決はない」と私が言うと、「その証拠は何か?」とたずねる人がいる。
「聖書にそう書いてある。それが証拠だ。」と答えると、「そんなの証拠にならない。客観性が必要だ」という。
聖書は、最終権威であるから、聖書の内容を証明するようなものは何一つ存在しない。
たとえば、聖書を証拠として提示したら、それで議論はストップ。
なぜならば、最終地点に到着したから。
世界一の山、エベレストに登頂したようなものだ。
「私は、世界最高の山よりも高い山に登るつもりだ」という人は永遠にそこにたどり着けない。
聖書は、最高地点であり、最終権威であり、基準である。
1mの原器を見て、これは本当に1mか?とたずねるのは愚かである。
その原器が1mであると定義されているから。
「神は愛か?」という疑問は愚かである。
なぜならば、神が愛の基準だから。
「神は存在するか?」という疑問は愚かである。
なぜならば、神が存在の基準だから。
神が存在する証拠は何か、などという疑問は愚かである。
神が存在の基準なのだ。
世界がまだ存在していないときに神だけが存在された。神は存在の根源であり、それゆえ、存在の定義を神と別個に持つことはできない。
神と無関係に定義するあらゆるものは、偽りの定義である。
コンピュータであれ、テレビであれ、鉛筆であれ、あらゆるものは、神との関係ではじめて存在しているのであるから、それらの定義を神と無関係にすることはできない。
以上の点についてよく理解していなかったために、近現代の神学者や思想家は、誤謬に迷い出た。
「どうしてイエスだけが救いなのか?」とたずねる人には、「なぜならば聖書がそう述べているから」が最終回答だ。
聖書は神の言葉であり、神の言葉は、我々被造物にとって最終権威であるから、聖書が定義したものを疑うことは許されない。
疑った人は、世界最高の山よりも高い山に登ったのだ。
つまり、虚構の世界に入ったということだ。
聖書に関しては、問答無用で信仰しなければならない。
聖書写本の問題はこれとはまた別の問題である。
聖書は原典において霊感されており、無誤無謬である。
我々は、あらゆることに関して、聖書を最終判断としてもち、それに基づいて自分の思考を組み立て、形づくらねばならない。
これは人間にとって基本中の基本の義務であって、言い逃れは絶対にできない。
聖書を最終権威としない思想は、冒涜であり、絶対に許されない。
2010年6月11日
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