京都は日本を仏教から守るために作られたのか


大変興味深いページがあったのでご紹介する。


「右近の橘」「左近の桜」

平安京は、はるか西方から渡来した秦氏と日本の先住民系の
鴨が私財をなげうって作った都だそうです。
そのことを後世に伝えるために、「右近の橘」「左近の桜」
があるそうです。
しかし、現在では、その事実がかなり歪曲され、
現在に伝わっていないそうで、そのことは大変不本意な
ことだそうです。
京都の鴨は鴨の中でも別と和解し、その後共同歩調をとり、
共に祭りを共有した賀茂別の一族だそうです。
当時、奈良の都は仏教が全盛を極め、
唐渡りのエリートは、大陸を崇め、日本古来の伝統文化を
見下す傾向が強くなっていたそうです。
学識のあるものほど、仏教を尊び、神道を見下す。
あげくのはては、「日本神道の起源は仏教である!」
と言い出す人々まで現れ、神道と日本の伝統文化を
尊ぶ人たちは大変苦悩していたそうです。
特に、はるか西方から流浪し、韓半島で迫害されていたところを、
日本人によって救済され、日本に移住した秦氏は
大陸の宗教に拒絶意識があり、桓武天皇の時代になると、
熱狂的に神道を崇拝していたようです。
広隆寺も、景教のための集会所だと言っている人がいますね。
秦氏でしょうか。
「法主王様の教えの場である。」
と言っています。
どうも、しかし、現実とつじつまがあいませんね。
弥勒菩薩を御祀りしている寺院ですからね。
しかし、弥勒菩薩を一部の秦氏は仏教の仏とみなしてないですね。
「マイトレーヤ」と呼んでいます。
太陽の女神だそうです。
ペルシャ人もいます。
弥勒菩薩を「ミトラ」と呼んでいるようです。
秦氏は「伊勢神宮も自分たちが建てた。太陽の女神の神殿だ!」
と言っています。
ただ、天照大神の存在はちゃんと理解しているようです。
秦氏の中でも神道に対する考え方が
2つに分かれたようですね。
しかし、仲たがいはしていないようです。
非常に難解で、頭の中が整理がつきません。


この秦氏、賀茂氏、和気氏など一族が神道復興の意図をもって
平安京が建設されたのだと吉田神道の方は言っておられます。
非常に難しくて難関なのですが、
「神地垂迹」「本地垂迹」という話しが盛んに出てきます。
当時、韓半島からの渡来人と一部の大陸留学組の
インテリ日本人が「日本の神様の由来は仏教である」
という運動を起して、色々と歴史的事実を改竄し、
日本の神様という存在が消滅する危機があったそうです。
それを、正しい道に戻し、本来の日本の伝統と文化を
守るための活動が「神地垂迹」であるというのが、
吉田神社の昔の神学生による説明です。
難しくてよく分からないですが。
そこで出てくるのが、松尾大社と日枝神社ですね。
日本の神様の根本は仏教であるという運動によって、
天照大神 →大日如来、観音菩薩
日吉 = 天照大神 → 大日如来
大国主→ 大黒天
などの改竄が大幅に各地で行われたそうです。
そのため秦氏は松尾大社や日吉大社の神様を大山咋神
であると明確化し、そのほかにも漠然と祀られていた
神様の名前を明確化する作業によって仏教による侵食を
阻止したそうです。
それと共に、私財をなげうって、京都の地に
神道の楽園を建設しようとしたそうです。
そして、現在、神道は守られたそうです。
それで、あれだけ私財をなげうって衰退し、
歴史から消えていったのに、笑ってたんですね。
だから、秦一族は「希望をすててはいけない」と
現代人に訴えているようです。
たとえ、自分たちの文化を圧殺しようとする者の
力が強大でも、自分の全てをかけて戦えば、
未来には勝利が待っていると。
そのための記憶の残像が「右近の橘」「左近の桜」
だそうです。
http://blog.livedoor.jp/ninzya5/archives/50305005.html

「特に、はるか西方から流浪し、韓半島で迫害されていたところを、日本人によって救済され、日本に移住した秦氏は」

とあるが、秦氏の故郷「弓月国」は中央アジアのキリスト教国である。おそらく、「大陸の宗教に拒絶意識があり」とあるから、宗教的な自由を得るために日本に亡命したのであろう。

以上から、秦氏の手による京都は、クリスチャンの国であった日本を仏教から守るために作られた町と推測できる。

以下のページも興味深い。

http://www.ne.jp/asahi/davinci/code/history/japan/index6.html

 

 

2009年6月23日

 

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