山谷さん、ウソはよくないですよ
<山谷氏>
再建主義者、曰く、
>イエスははっきりと「この世代が過ぎ去る前にこれらがすべて起こる」と24章自体の中で述べているのだ。これをどう解釈する?ギリシャ語で「ゲネア(世代)」とは「30-33年」である。プレ・ミレの人々が大患難時代と呼ばれる時代に起こるとしている数々の「前兆」は、「30-33年のうちに起こる」とイエスがはっきりと述べておられるのに、なぜ彼らは無視するのか???
無視しているのではなく、パーシャル・プレテリズムの釈義が間違っているのが明白であるために、ことさら論駁する必要性を、だれも感じていないからでしょう。
艱難の規模について、主イエスは、次のように言われています。
「そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである」
これは、終末の艱難の規模と内容のスケールについて明示した、命題的な真理であると考えることが出来ます。つまり、艱難時代は、その苦難の規模と内容において、「世界創造以来かつてないほどのスケールであり、また、それがひとたび来たならば、以降二度と繰り返されることがない」のです。
艱難時代についてのこの命題的真理を、「ユダヤ戦争」と「エルサレム陥落」に当てはめるならば、ユダヤ戦争もエルサレム陥落も、いずれも、その苦難の規模と内容において「ノアの洪水」をはるかに下回るものであり、また、紀元70年以降、ユダヤ戦争やエルサレム陥落をはるかに凌駕する苦難を、人類は歴史の中で繰り返し繰り返し経験して来ているからです。
さて、問題は、主が「そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである」と言われたときに、主御自身が「ノアの洪水を凌駕する規模の苦難」を念頭に置いておられたのかどうか、ということです。
このことは、マタイ24:37において「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである」と言われていることから、まさしく主が、ノアの洪水を念頭に置かれていたことがわかるのです。
そこで、パーシャル・プレテリストが言うように、仮にユダヤ戦争とエルサレム陥落において「艱難予言」が成就したのであれば、主イエスが言われた「そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである」という御言葉は、地に落ちてしまうことになるのです。
しかし、御言葉が地に落ちるような聖書解釈は「偽」と判定されるわけですから、結果として、パーシャル・プレテリストの釈義は、間違っている、ということになります。
さて、世界と歴史の終末は、旧約聖書から新約聖書に至るまで一貫して「破局的出来事」と結び付けられて語られています。そうして、ヨエル書においては、終末論的賜物として「聖霊」が信者に与えられることが、約束されています。
パウロ神学においては、聖霊は、信者に対して身体の復活を保証する「終末論的保証」「終末論的担保」として捉えられています。
現在の経綸において、世界中のキリスト者が、聖霊を体験しているという事実は、「終末論的保証を受け取っており、終末に対して備えられているが、いまだ徹底的な終末には至っていない」という、中間時の緊張状態を意味しています。そうして、主イエスは、艱難時代においてキリスト者が迫害を受けたときに、王や司の前で語るべき言葉をキリスト者に授けるのは「聖霊」であると言われているのですから、主御自身もまた、聖霊を「終末論的保証」として捉えておられたことがわかります。
このように、艱難を伴う徹底的な終末の到来は、限りなく近づいているが、いまだ来ていない、ということになり、このことは、キリスト者の聖霊体験からも弁証することが可能です。
では、パーシャル・プレテリストが問題とする「世代」(ゲネア)の釈義は、どのように行うべきなのでしょうか?
福音書における「ゲネア」の用法は、「罪の中に捕らわれていて、キリストに反抗する姿勢を示す、旧約律法の下にある人々」というものです。律法という養育係の手によって、キリストの目の前に連れて来られたのに、キリストを受け入れようとはしない、ユダヤ人です。
これが「ゲネア」が指し示す意味内容であるとするならば、「ゲネアが過ぎ去る」とは、「福音を拒否していたユダヤ人が一転して、福音を受容し、ナザレのイエスをメシアと告白するに至る」ということを意味することになります。
ところで、歴史において、いまだ、上記のような「回心」は大規模に起きておりません。それゆえ、「このゲネアは、いまだ過ぎ去っていない」ということになります。
<tomi>
(1)
「福音書における「ゲネア」の用法は、「罪の中に捕らわれていて、キリストに反抗する姿勢を示す、旧約律法の下にある人々」というものです。律法という養育係の手によって、キリストの目の前に連れて来られたのに、キリストを受け入れようとはしない、ユダヤ人です。」
ウソついちゃいけませんね。
福音書において「ゲネア(γενεα)」は以下33箇所出てくるけど、「人々」という意味はまるでありません。
各個所に新改訳の訳語をつけると次のようになります。
マタイ 1:17(世代), マタイ 1:17(世代), マタイ 1:17(世代), マタイ 1:17(世代)
マタイ 11:16(時代), マタイ 12:39(時代), マタイ 12:41(時代), マタイ 12:42(時代), マタイ 12:45(時代), マタイ 16:4(時代), マタイ 17:17(世), マタイ 23:36(時代), マタイ 24:34(時代),
マルコ 7:26(生まれ), マルコ 8:12(時代), マルコ 8:12(時代), マルコ 8:38(時代), マルコ 9:19(世), マルコ 13:30(時代),
ルカ 1:48(時代), ルカ 1:50(代々の「代」), ルカ 1:50(代々の「代」), ルカ 7:31(時代), ルカ 9:41(世), ルカ 11:29(時代), ルカ 11:30(時代), ルカ 11:31(時代), ルカ 11:32(時代), ルカ 11:50(時代), ルカ 11:51(時代), ルカ 16:8(世), ルカ 17:25(時代), ルカ 21:32(時代)
マタイ 24:34と、マルコ 13:30、ルカ 21:32の欄外には「または『民族』」と注がありますが、これは、今問題になっている「これらの前兆がすべて起こるまではゲネアは過ぎ去らない」という個所なので考察外とすると、福音書において「ゲネア」は、「時代」とか「世代」であって、「人々」なんて皆無。
これは、新約聖書全体について言えることで、「ゲネア」は圧倒的に「時代」と訳されている。
2004年4月8日
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