教理を聖書から作り上げよう3


1990年に私のかつて所属していた教会がセオノミーを拒絶し、他の福音派の教会がその決定を黙認したときから、福音派は、教理的に異端化した。

それまで灰色だったものが、黒に変わった。

ディスペンセーショナリズムが福音派に浸透し、「今は恵みの時代。律法の時代ではない。律法はすでに廃棄された。現代に適用する必要はない」という教えが一般化した。

ディスペンセーショナリズムの完全支配は、教会の異端化を意味する。

この誤謬に基づいて教会の迷走が始まった。教会はかつての姿ではなくなった。

その後、私はセオノミーの教会に転会したので、福音派教会の状況を内部から見てきたわけではない。しかし、外部から見ても次第に劣化しているのが分かった。

「律法は関係ない」という教えが実を結んでいった。

神の法という柱が欠如したため、右に左にぐらぐら動いた。

やれカンファレンスだ、やれ心理学だ、レフト・ビハインドだ・・・。

様々な教えの風に吹きまわされた。


それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。(黙示録2・5)

セオノミーの拒絶からおかしくなったことを認め、それを受け入れ、それに基づいて教会を再編しない限り、このままだといずれ燭台が取り除かれることになるだろう。

 

 

2009年8月22日

 

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