わがままに育てる親は子によって恥をかく


「クリスチャンになり、愛の人になることを目指し、人を許そうと努力しはじめてから、自分の子どもを厳しくしつけることをやめてしまった」というような珍妙な現象をよく見かける。

こういった現象の大きな原因は、教会の間違った教えにある。

「ほめて育てなさい。しかってはならない」みたいな。

ほめることは大切だ。

しかし、叱ることも大切。

要するに、信賞必罰をきちんとせよ、というのが聖書の教えである。

善をほめ、悪を罰する。

なぜならば、親は、神の代理として、子どもに神の裁定を実行する使命を帯びているからだ。

子どもが悪いことをした場合に、神がまずその子どもを裁定しておられることを認識すること。

つまり、神が子どもを裁こうとしておられる。

神は直接には裁かれない。

代理者を通じて裁かれる。

親は子どもの代理者である。

だから、親は「自分が優れているから」ではなく、また、「自分が子どもに対して権力を振るえる立場にあるから」ではなく、「神の代理者として裁きを委ねられているから」裁くのである。

国も同じである。死刑制度に反対する人がよく遣う台詞。

「人間が人間を殺していいのか」

いいのだ。

なぜならば、殺人者に対する神の裁定は処刑であり、それを国家に委託しているのだから。

国家は「自分が優れているから」ではなく「自分が殺人者に対して権力を持っているから」でもなく、ただ「神が自分に神の裁定を実行することを委ねられたから」死刑を実行するのである。

このように神の代理者としての権威を無視するようになると、神はその代理者を排除される。

「使い物にならない」から。

社長が支店にある人間を支店長として派遣したのに、社長の意思と無関係に行動するようになったら更迭するしかない。

だから、子どもをしつける場合には、自分の感情とか意思を殺して、聖書にしたがって子どもを扱う責任が親にはあるし、また、国家には自分の感情や意思と無関係に聖書にしたがって殺人者を処刑しなければ、その役目をおろされるのだ。

われわれは神の代理者として正しいことを行わない場合に、「必ず」実を刈り取る。

代理者としての任務を解かれる。

そういう意味において、われわれは、神を侮ることはできない。

必ず裁きは来る。

自分の子どもが成人したときに、世間に迷惑をかけ、親が恥を蒙ることになる。犯罪者になったり、ニートになったり、浮浪者になったり。

こういう果実を刈り取る。


むちと叱責とは知恵を与える。わがままにさせた子は、母に恥を見させる。(箴言29・15)

 

 

2010年12月31日

 

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