再建主義批判のサイト(米)への応答7


<RNCI>

[しかし、この時代のクリスチャンに対する神の命令は、地上に対する文化的支配の回復ではなく、大宣教命令の実行にある。聖書は、「終わりの日」「終わりの時」であるこの時代に関しては、大きな霊的・道徳的な低下を予言しており、その逆ではない(1テモテ4・1-2, 2テモテ3・1-6)。聖書が教える活動とは、大宣教命令の成就である(マタイ28・18-20)。(Sep-Oct '93, Fundamentalist Digest)] 

<tomi>
(1)
大宣教命令そのものが「地上に対する文化的支配の回復」なのである。

大宣教命令をただ「福音を伝えること」と考えているからこういった誤解が生じるのだ。

イエスは大宣教命令において、「弟子としなさい」「私が命じたすべてのことを守るように教えなさい」と命令された。

ただ福音を伝えて、弟子ができるだろうか。

落語の師匠は、弟子に対してただ情報を伝えることしかしないだろうか。いや、日常生活を通じて、落語家として一人前になるように指導するのが仕事ではないだろうか?

弟子作りとは、生活全般に及ぶ指導である。全領域についてふさわしく整えることである。

「すべての国民を弟子とせよ。」との命令は、その国民、民族を全領域においてクリスチャンとしてふさわしい状態にまで整えることを意味するのである。

(2)
現代を世界の終末の時代と特定する聖書的根拠はない。

聖書が主張している「終わりの時代」とは主に、旧約のイスラエルの終末、旧約時代の終末である。

ペテロはペンテコステの説教において「預言者ヨエルの終末預言が成就した」と述べた。

「これは、預言者ヨエルによって語られた事です。
『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。」(使徒2・16-17)

神殿礼拝の時代、つまり、旧約時代は過ぎ去って、新しい時代がやってくる。この時代の変わり目に、預言者や祭司に限られていた職能は、万人に開放された。すなわち、普通の人々が預言し、幻を見、夢を見るようになる。

ペンテコステの出来事は、「終わりの日」の出来事だった。

ここからどうして我々の住む現代が特別に終末だと判断できますか?

1テモテ4・1-2, 2テモテ3・1-6をどうして現代の預言と考えられますか?

パウロは、テモテに向かって、言っているんですよ。

「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」(2テモテ3:1-6)

パウロが関心を持っていたのは「テモテの牧会」についてだった。

テモテはいつの時代の人ですか?パウロと同時代の人ですよね。

つまり、パウロがここで「終わりの日」と呼んでいるのは、「テモテが体験する時代」なんです。

「テモテよ。おまえはこれからこういった時代を経験するだろう。注意しなさい。」と。

ここで遠く2000年後の未来を見ていたわけではない。

つまり、この「終わりの日」とは、先のペテロのペンテコステ説教と々ように、紀元70年の神殿崩壊と、神殿礼拝の停止、それに続く、クリスチャンを通じての普遍的場所、状況での礼拝の開始への切り替わりの時期のことを意味している。

まさに、イエスがマタイ24章において述べた「アイオーン(時代)の終わり」の状況についてパウロは述べている。

どの神学校でも教えられている聖書解釈の原則「聖書は直接の読者が理解できないようなことは書いていない」を適用すれば、このパウロの手紙にある「終わりの日」が現代を指していると解釈することはできないのです。

ディスペンセーショナリズムの終末論は、文脈を無視した「間違った聖書解釈」に基づいているのです。

 

 

2006年2月22日

 

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