すべてのことは予定されている
>創世記6−6に
>「主は 地上に人を造った事を後悔し、心を痛められた。」とあります。
>そして ノアの箱船を お造りになるのですが
>なぜ 全知全能の神が「人間たちが悪い事ばかりをする」と言うことを
>予測できなかったのでしょうか?
>完全な力をお持ちの神なのに ご自分のされた行いに対して
>「後悔する」ということが あるのでしょうか?
>先生は どのようにお考えでしょうか?
神にとって予測できないことはありません。
この地上で起こるすべてのことは、あらかじめ神が決定されました。
現在私たちの目の前で起こっていることは、神の計画がそのとおりに起こっていることです。
まるで銀幕の上に映っている映画のようです。フィルムに記されていないことが映し出されることがないのと同じように、神の計画によらずに起こることはありません。
もし神の計画にないことが起こるならば、「神は影響を受ける」ということになります。神は絶対者であられ、すべてのことをご自身の一存で決定されるかたであり、「絶対的に常に能動的」であり「受動的」に起こることはありません。
では、悪は神の能動的御業であるならば、神は罪を犯すことにならないかという問題が生じます。
神は人を誘惑することも罪を犯させることもなさいません。
では、どうして神の決定によって人は罪を犯し、しかも神は罪の責任から自由なのでしょうか。
神は、抑制の恵みを取り去ることがあるのです。
抑制の恵みとは、人が罪に堕ちないように支える恵みです。
我々から抑制の恵みが取り除かれるならば、我々全員がヒトラーのような罪を犯すでしょう。
ピンボールを思い出してください。両手で腕のようなものを押してボールが落ちてくるのを跳ね返します。
もし腕でとめなければ落ちていきます。
落ちる動作は、自分が行ったのではなく、そのボールが行ったのです。
同じように、神は我々の下を支えている抑制の恵みを一時的に取り去ることがあります。そして、私たちは「自分の責任で」罪を犯します。
私たちが罪を犯した場合に、神に向かって「あなたが支えを取り去ったから私は罪を犯したのです」と叫ぶことはできません。
なぜならば、私たちは自分の欲望で罪を犯すのですから。
もし神を訴えるならば、それは、「あなたがあそこにおいしそうなラーメン屋を作るからいけないんだ。だから僕は食い逃げをした。」というようなものです。
私たちとヒトラーとの差は、もっぱら「恵みの差」です。神は私たちが極悪人にならないように、守っていてくださる。
神は誰を恵んで誰を恵まないかを主権的に選ぶ権利がある。
神は主権的に、歴史の過程をあらかじめことごとく決定され、誰を恵んで救いに選び、誰を恵まずに滅びに選ぶかをすでに決めておられる。
人間は、誰が選ばれていて誰が選ばれていないか分からないので、勝手に「彼は選ばれていないから伝道しても無駄だ」とは言えない。
誰が救われるか我々にはまったくなぞです。だから、我々の側では、(聖書に啓示されていること以外の)神の計画について勝手に断定してはならない。
ご指摘の箇所について、神は、ノアの洪水の前に、イエス・キリストの救いの型を示すために、洪水を起こすことを決定されました。
そのために、ある人々を選んで、彼らに対して抑制の恵みを取り去り、彼らが堕落するままに放置されました。
それで彼らは罪を犯し、洪水の裁きにあう状態にまで堕ちた。
ですから、神にとって「ああ、なんてことだ!私が創造した人類が堕落してしまった!」ということはないし、後悔することもありません。
「神は・・・人の子ではなく、悔いることがない。神は言われたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。」(民数記23・19)
この箇所において「悔いる」ということばを使ったのは、人間の立場のような状況にあえて立ったということです。
つまり、「何かを作り出した人間が、作品が失敗した場合に通常感じるような感情をあえて抱かれて、我々にご自身の立場を啓示された」ということです。
実際は、神はすべてを計画どおりに行っておられる。だから、人間のように未知の未来に常に直面するようなことはない。しかし、神はあたかも人間であるかのように、「ご自身の被造物に不快を示された」ということです。
実際、神は我々が罪を犯す場合に、不快になられる。そして怒られる。神の法へのあらゆる違反に対して憤っておられる。
しかし、その罪すらも神の計画の中で起こっている。計画どおりに人間は罪を犯し、そして、神はそれに怒りを抱かれ、裁かれる。
素粒子一つの運動ですら、神の計画の中に含まれていないものはありません。
2009年7月18日
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