科学至上主義者は、最後にはサタニストになる


(1)
今のクリスチャンが世俗思想に冒されている証拠は、死後の話、奇跡の話をすると、「トンデモ」ではないかとすぐに結論することである。

ちょっとでも超自然的な話をするとオカルト扱いする。

「クリスチャンで瞬間移動する人がいるかもしれない」と語ったところ、私の友人からtomiはおかしなことを言い始めたといわれた。

瞬間移動は、聖書に何度もかかれている。ピリポはその顕著な例である。

「それは聖書の時代の話でしょう。今はそんなことは起きないから」というか。

じゃあ、「祈りが成就することは聖書の時代の話でしょう。今はそんなことは起きないから」となぜ言ってはならないか。

聖書の時代と我々の時代を区別する「経綸の違い」とは何か。

そんなものはどこにもないのだ。

聖書の時代と我々の時代を区別することは異端だ。

いいですか!これは軽微な間違いではない。

聖書の時代と我々の時代の間に神の経綸の変化が起こったというのは、聖書のどこにも書いていない。

聖書の時代に起こったことは、今でも起こりえる。

時代的経綸の区別は、旧約時代と新約時代だけに有効である。

これ以外にはない。

聖書の時代には○○はあったが、今はないという考えは、自分の不信仰の言い訳にすぎない。

自分が不信仰なので、奇跡が起こらないことを、時代のせいにしているだけだ。

(2)
この世界において奇跡は起こらないとする今の流行的思想は、「被造物を神に祭り上げる偶像礼拝の教え」である。

聖書の世界は、奇跡の世界である。

なぜならば、神は自然を超越する主権者だから。

神は、自然の法則に縛られない。もし聖書の物語に奇跡がなければ、それは単なる被造物の物語である。

神は、神であり、主権者であるがゆえに、奇跡をなさる。

奇跡を通じて我々は「この宇宙は閉じられていない」ということを知る。

神が究極か、自然が究極か?

奇跡を軽視するクリスチャンは、暗黙のうちに自然が究極と告白している。だから、彼らは偶像礼拝者なのだ。

奇跡を馬鹿にするクリスチャンは被造物崇拝者であり、本当のクリスチャンではない。

(3)
この宇宙で自然法則が絶対であるならば、「夢も希望もなくなる」。

このジレンマにヒューマニズムはずっと悩んできた。

もし世界が自然法則だけで成立し、力の強い者が弱い者を滅ぼすということが、この世界のすべてであるならば、夢も希望もない。

道徳など持っているほうが馬鹿だということになる。

正直者は馬鹿を見るということになる。

もしこの世界観が正しいならば、道徳を捨てて、剥き出しの力を得よと学校で教えるべきじゃないか。

ずるいことをやってもいい。犯罪的なことをしてもいい。とにかく力がすべてだ。力を得ることに集中せよと。

これは、サタン教である。

つまり、奇跡を否定することは、サタン崇拝につながるのだ。

私がこのHPで述べている超自然的現象について馬鹿にすることは、サタン崇拝につながる。

神癒、祈りの成就、聖霊の働き、復活、瞬間移動、・・・こういったことを馬鹿にするならば、最終的にサタン礼拝にひきずりこまれるだろう。

科学至上主義者は、最後にはサタニストになる。

 

 

2008年7月7日

 

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