字義的解釈と象徴的解釈の区別9


<Q>
キリスト教における律法についてお聞きしたいのですが、よく多くの信者が右の頬をぶたれたら左をだせ、がキリストの律法だと思ってると思うのですが、これはキリストが成就者ゆえ目には目にぶつけていて犠牲から憐れみへ移行する前段階を表す表現だと思うのですが。

それと憐れみは権威を表していると思うのですが、旧約において祭司は権威はあったけどあくまで律法の中に限定的に置かれた立場だと思うのですが、新約の場合は憐れみが重要になって来るので権威が律法の外に移行すると思うのですが、例えば殺人を犯した者でも本当に悔い改めたなら例外的に許す事ができる、と言うのが憐れみだと思うのですが、それはなんでもいいと言う事ではなくて、ちやんと線引きがあると言う事なんですけど。御意見の方をお願いします。

<A>
イエスは律法を廃棄するためではなく、成就するためにこられました。そして、パウロが言うように、
律法は信仰によって確立されたのです。つまり、律法はそのまま有効であり、むしろ、確立され、不動のものとなったというのです。ですから、右のほほは、目には目をの律法の否定ではありません。
刑罰は、同じものを犯罪者に与えなければならない。骨折させたら骨折をもって、殺人は処刑をもってはじめて償いが完了します。それ以下の場合は、神の義は満足しません。

右のほほを、という戒めは、文脈を読む必要があります。当時、ユダヤ人はローマ人の占領下にいて、侮辱を受けていました。ユダヤ人は選民であり、ローマ人は犬と侮辱していましたからその侮辱の対象である人間から平手打ちをされたり、賦役で、重い物を持って1ミリオン歩けと命令されたり(これはローマが属州の人間に課すことができる権利でした)、は耐え難い苦痛でした。

そこで、ユダヤ人は反ローマ武装抵抗運動を開始しようとしていたのですが、イエスは「そのような態度はよくない。占領された原因は律法違反にあるのだから(申命記参照)、武力で転覆させるのではなく、神の教えのように、義を行うことによって力を獲得し、ローマの支配から脱出しなさい。」と教えたのです。

右のほほをぶたれたら左を差し出せ、とは、「とかく抵抗運動に走りがちなユダヤ人に対して権威に服従せよ、という本当の権威獲得の方法を示したこと」なのです。

ヨセフのように、服従による権威の獲得以外に正しい出世の方法はありません。革命は、サタンの方法です。

<Q>
良くわかりました。キリストが言った事はイザヤがヒゼキヤにアッシリアに逆らってはいけないと言った事と同じ事を言ったわけですね。キリストは預言者でもありますから。

<A>
そうです。
あの文脈になぜ「○○ミリオン行け」という話が出てくるのか、がポイントです。単なる「自己防衛禁止」の戒めではない。

あれを用いて防衛戦争禁止すら主張するクリスチャンがいるので注意が必要です。

 

 

2007年1月20日

 

ツイート



 ホーム

 



millnm@path.ne.jp