二つに一つ2
恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。(ルカ12・5)
イエスはここでこう言われた。
「人ができることは、殺すことまでだ。
殺した後のことまではできない。
だから、人を殺すことしかできない人間を恐れるな」と。
肉体的に死ぬことなど、永遠の死に比べればなんでもないことだ。
永遠の死とは「永遠の刑罰」である。「永遠に眠ること」ではない。
刑罰は、1億年たっても終わらない。
我々の永遠の運命は、この短い人生の間においてイエス・キリストを受け入れるかどうかによって決定される。
イエス・キリストを受け入れるということは、単にイエス・キリストを信じることではない。
イエス・キリストを通じて神の契約の中に入るということだ。
神の契約の中に入るとは、「神と主従関係を結ぶ」ということを意味する。
つまり、神の命令を絶対の条件として守ることを誓約することを意味する。
もちろん、我々は完璧ではないので、罪を犯すこともある。
その場合には、「罪を犯しました。契約を回復してください」と言って、イエス・キリストという犠牲を捧げる。
神はその犠牲をごらんになって、贖いが成就されていることを思い出される。
そして、契約は回復する。
もし罪を犯しても、契約回復の手続きを踏まないならば、契約違反となり、追放処分となる。
神の法への拒否は、「契約への不本意な違反」ではなく、「意図的な契約への不同意」である。
つまり、「契約関係の拒否」である。
だから、神の法を拒絶する罪は絶対に許されない。
保険契約でも何でも、契約締結の最低条件は、契約の規定を守ることに対する同意である。
もし守ることを拒否するならば、契約は解消される。
だから、十戒の拒否、十分の一の拒否、聖書を絶対的権威として認めることの拒否を公言し、それを行うならば、最初から契約を拒否したことになる。
それゆえ、教会は、こういう人々をクリスチャンとして認めてはならない。
私は、教会は聖められる必要があると思う。
これらの契約違反を平然と行える人々を招きいれることは神への冒涜であり、神を馬鹿にしていることであるから、必ず裁きは訪れる。
あしからず。
2010年5月21日
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