文化相対主義は異端である
文化相対主義は異端である。
文化相対主義の基本には、価値相対主義がある。
これは、多神教思想であり、世界の成り立ちの根源を「唯一神による無からの創造」に置いていない。
唯一神の無からの創造に根拠を置けば、この神以外に基準は存在しないので、物事の価値をこの神の御心によって判断するということになる。
しかし、唯一神の無からの創造に根拠を置かなければ、世界の様々な物事の存在を根拠づけているものは神ではないのだから、ものごとの善悪、価値などを決定するのは、人間の自由な意思になる。
無神論に基づく文化人類学では、それゆえ、文化に優劣は存在しないのである。
人食い人種の文化がキリスト教文化よりも劣っているとは限らないと言うのである。
この学説が間違いであるのを証明するのは簡単である。
その学説を唱えている人々に向かって「じゃあ、あなたは人食い人種の文化の中で暮らしたいですか?」と聞くことである。
100人中100人がNOと答えるだろう。
「いや、私はあっちのほうがいい。」と言う人がいたらその人は嘘つきである。
我々が享受している現代文明の大部分は、「生活を快適にしようという努力の集積である」。
だから、人食い人種の文化よりも、様々な文明の利器のそろった現代文明の中で生活したいと願うのは当然であり、それゆえ、現代文明のほうが優れていると判断する人々のほうが圧倒的に多いというのも当然なのである。
文化や文明には価値の上下があり、優劣がある。
その優劣は何によって決定されるかと言えば、聖書である。
なぜならば、聖書はこの世界を創造された神の御言葉だからである。
聖書にしたがって、神の御心によりよく従っている文化は、従っていない文化よりも優れている。
このような価値基準を持たない限り、文化人類学は、カオスを生み出す以外にはない。
その学問的行為は、虚無を作り出すので、無価値である。
実際、私の友人でインドネシア研究をしている男がいて、彼の教授は「文化には価値の優劣はない」と明言しているそうだ。
こんなこと、実業の世界で言ったら笑われます。
人を殺して食べるような人々に仕事を依頼できますか?信用取引できますか?
この世界はキリストの神によって創造された。だから、万人はこの神の基準にしたがって価値判断を「しなければならない」のである。
2007年7月23日
ツイート
ホーム