黙示録講解2


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さて、この手紙が記された手順に注目すべきである。

まずそれは「神がキリストにお与えになったもの」である。

最原著者は、「神」である。そして、その啓示はキリストに与えられた。

キリストは、それを御使いに託し、御使いはヨハネに告げた。つまり、

「神」→「キリスト」→「御使い」→「ヨハネ」→「読者」

という順番に手渡されたことがわかる。

我々が天皇陛下からもし手紙を受け取った場合、どのような手順で手紙が届くだろう。天皇陛下が直筆で直接ポストに投函されるということはまずないだろう。

陛下が誰かに口述筆記させ、それを侍従かだれかに手渡され、侍従はそれを部下に手渡して投函するように手配するだろう。

なぜそのような手順を踏むかといえば、天皇は権威だからである。

近代になって平等が強調され、評価されるようになったが、聖書の世界は平等主義ではけっしてない。むしろ、聖書は権威主義である。

神の統治の方法は、直接統治ではなく、権威を通じての間接統治である。

もちろん、神は世界を直接に統治されている。「すずめ一羽でも御許しなしには地に落ちることはない」のである。

しかし、神は何から何まで自分で直接手を下して統治されるのではない。我々の周りの物理的現象は、自然法則にのっとって起こっている。神は自然法則に物体の運動を委ねておられる。

神裁政治であったイスラエルですら、神は士師や王、そして律法を通じて統治された。

御心を伝えるために、預言者を立てられた。まれに、直接神が啓示されることもある。イエスがパウロに現われて「パウロ、パウロ、なぜわたしを迫害するのか?」と尋ねられたり、罪を犯したバビロンの王の目の前に指を現されてものを書かれたりとか。

しかし、神の啓示の方法のほとんどは代理者を立てての間接啓示である。

ここに我々は、「秩序を重んじる」ということを学ぶべきである。

神ご自身のうちでも、権威に差がある。父なる神は子なる神と聖霊なる神を使わされる。子は父に従われる。聖霊は父と子から出られる。

なぜ人間は権威と秩序を重んじなければならないのか?という疑問への究極的な答えは、「なぜならば、神がそのようなお方だから」である。

人間は神の象徴として創造されたので、神ご自身を真似なければならない。

神が権威と秩序を重んじ、権威のヒエラルキーを通じてことを行われる方であるならば、人間も同じように、権威のヒエラルキーを通じてことを行うべきである。

権威への反抗を教える共産主義、革命主義、無政府主義は、神から出たものではなく、サタンの思想である。

現代の思潮は、権威への反逆を美徳とする。

ライブドアの堀江社長のニッポン放送買収劇は、封建主義のメンタリティが残る日本の企業社会にとって「来るべくして来た」黒船のようなものである。

上場したということは、広く世間一般から資金を集めやすくなった反面、乗っ取りに合う危険性もあるということを意味する。

上場企業とは「金を持つよそ者のいいなりになる」危険性をつねに抱えている。今回は、その危険が実現したということになるのだが、考えてみれば、大金を積んで堀江社長が放送局を自分のものにしたとしても、作り出す商品は視聴者の審判の下にさらされるわけだから、「放送は公共のものだ。個人のものではない」との心配は無用のように思える。

社会主義の全体主義国家において、番組がどんなにつまらなかろうが、それ以外やっていないので人々はそれを見るしかないのだが、資本主義で市場経済のもとにおいては、誰もが、権威者によるチェックにさらされるので、怠慢な仕事をしていられない。

神が権威を尊重され、権威を通じて事を行われる方であるから、人間も権威を通じて事を行う社会を作るべきである。

ソ連のスターリンなど独裁者は、誰にも裁かれない体制を作ろうとするが、誰にも裁かれない人間は化け物になる。

ひきこもりの人間が化け物のようになるのは、自分の取っている行動に対して裁きがくだらないからである。怠けて働かないのに、飯が食えるからである。自分は誰にも裁かれたくないし、誰にも評価もされたくない、と言う人間はこの世界の完全な異物なのである。

ひきこもり、正当な競争をも排除しようとしたマルクス主義、そのマルクス主義の影響を受けた今日の学校教育は、化け物を大量生産しているのである。

 

 

2005年3月2日

 

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