リバイバル運動を手放しで肯定してよいか?


いわゆるリバイバルと呼ばれるものを我々は手放しで肯定してきた。

しかし、歴史を見ると、リバイバルの後には、社会秩序の崩壊があった。

アメリカでは、リバイバルの時代の後、フリーメイソンの支配が始まった。

ビリー・グラハムのリバイバル運動の後に教会はがたがたになった。

牧師たちは、「聖書研究などやるより、伝道だ!」といい始めた。

若者や学生は伝道集会に駆り出され、霊的熱狂が繰り返された。

私はあの頃(1970-80年代)活躍していたクリスチャンで今も信仰をまともに継続している人をほとんど知らない。

リバイバル運動のどこに問題があるのだろうか。

リバイバルの霊的熱狂はクリスチャンをアトム化するのだ。

神と人との関係だけが強調され、横の関係はただ「奉仕と仕事の関係」だけになる。

思想的になんら進歩しない。

奉仕と仕事に忙しくて、教理的な話題など出ない。

互いに切磋琢磨し、真理を求める雰囲気は霊的な興奮状態の中で消えていく。

とくに「再臨が近い」「世の終わりが近づいた」というスローガンのもとに若者を集め、宗教活動に動員した教会はいま、がたがただ。

根無し草を作るからだ。

若者にとってこの刹那主義は、猛毒である。

再臨切迫の教えによって、彼らは人生設計ができない。

「職業訓練?家庭建設?子供の教育?それどころではないでしょう。再臨が近いんですよ!」

実はこの私が体験者なのだ。

私は学生時代にディスペンセーショナリズムのプレ・ミレを信じていた。

将来設計がまるでできなかった。自動車の免許を取ることすら無駄に思えた。

就職も仕方がなくしたようなものだ。本当は、預言者のようになって終末が近いことを訴えたかった。

あれから数十年。終末は来なかった。

職業や家庭生活に対する準備をまったくしないままに青春時代を伝道に費やした。

まるでオウムの出家信徒のようだった。

リバイバル運動とは、若者を根無し草にするための敵の策略ではないかとすら思う。

少なくとも不健全なものであることは確かだ。

 

 

2009年10月20日

 

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