「良い寛容」と「悪い寛容」


以前、教会に、日基の牧師が来て、私の主任牧師にこう言った。

「君の説教には文化がない」と。

彼は、神学校時代にこの主任牧師の指導教官だった。

たしかに、福音派は文化を福音が扱わない領域として見るから、文化面において弱いかもしれない。

しかし、私は恐らく、文化が弱いという言葉にはもっと別の意味があったのだろうと思う。

それは、「新神学が扱うような文化的な広がりがない」ということだろう。

ご存知のとおり、新神学は聖書を基準として受け入れない。

聖書が歴史的に正しい情報を提供していると考えない。

たとえば、進化論を受け入れ、創世記の記述を偽りと断罪する。

あれは、神話である、と。

こういった具合に御言葉をそのまま受け取ることができないため、彼らの神学とは、人間の意見を基準に置くものになり、その結果、それはヒューマニズム哲学の一派でしかない神学なのである。

だから、バルトなどに汚染されたミッションスクールの神学部が出した書物を見てほしい。

生まれ変わったクリスチャンから見れば、まったくの無益な言葉のバブルである。

難しいことを並べて言っているが、内容がない。言葉では、聖書を尊重しているようなことは言うが、実質的には聖書を馬鹿にしている。

神の知恵を馬鹿にし、人間の知恵を尊ぶから、人間の知恵以上のものはそこから生まれない。そのため、学ぶものが何もないのだ。

あんな学問をやって虚しくないのか、と不思議に思うのだが、虚しくないのである。なぜならば、彼らは聖霊によって生まれ変わっていないから。

私とインターネットでやりとりしていたある有名ミッション大学の神学部の教師がよく、そこの論文集などを送ってくれた。せっかくのプレゼントではあるが、しかし、ほとんど見るべきものはなかった。まさしく、紙とインクの無駄である。

御言葉から離れて、思弁に走るから、いろんな「文化的なこと」は書いてあるが、力がまったくない。意味もない。単なる知的遊戯である。

実際、この教師はその後自殺してしまった。

彼の「信仰」は彼を助けることができなかったわけだ。

我々は、御言葉を基準として扱うべきである。つまり、それを疑いの対象にしてはならない。

聖書を無謬とし、そこを出発点として文化を扱わない限り、その文化論は無益である。

その信仰が自分を支えて、生かす力にならなければ、何の意味もない。

御言葉について、「聖書にも誤りはあるのだから」という理屈で、「もっと広くものを見たほうがよい」という人がいたら気をつけよう。

それは寛容ではなく、単なる「放縦」である。

オリンピックの試合において、厳密に時間や距離を測定する人に向かって、「あなたは非寛容だ」といって、それを変えさせて、何かいいことがあるだろうか。

この世の中には、「良い寛容」と「悪い寛容」があるのだ。

御言葉を基準にしなくてもよい、と言うような寛容は悪い寛容である。

どうしてこういった寛容を求める人がいるのだろう、と聖書信仰のクリスチャンは不思議に思うかもしれない。

だって、聖書が基準でなかったら、どれが神の言葉であり、どれが人間の言葉であるかを誰が判断できるのか、という疑問が起きるから。

だれもそれを評価できない。なぜならば、この世界に不動の神の啓示と言えるものは存在しないのだから。

結局、人間の主観的判断に委ねられるので、我々は頼るものを奪われる。

混沌の連続である。

こういった混沌しか生み出さず、人々の信仰を実質的に破壊するようなものは、「悪い寛容」であり、そういった主張をする人間の言うことを信じてはならない。

 

 

2004年8月3日

 

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