自分の命を救おうとする者はそれを失う


今TVがつまらないという意見が多い。

実際、TVをつけて見たい番組がほとんどない。

NHKはまったく見ない。

どうしてこうなったかというと、一つにTV局側が過剰に「視聴率や苦情を恐れている」からだ。

文化の一つの重要な側面として、発信者やリーダーは、人の顔色を無視する度量が必要だ。

しかし、近年の流行として、「まず相手に合わせる」ということが普通になってしまった。

キリスト教でもこの傾向はここ20年の間に顕著で、ノンクリスチャンにどう思われるかが非常に重要になっている。

ある預言をするので有名な教会に行って驚いたのが、牧師がメッセージの中で「タレントの○○さんもクリスチャンです。サッカー選手の□□さんはカリスマ派のクリスチャン。」とさかんに有名人の名前を挙げていたことだ。

預言者が人気を気にしだしたらおしまいだ。

私が福音派を出たころにこの傾向が現れはじめた。

これは、フラー神学校のコンテクスチャライゼーション(文化脈化)という教えの影響が強い。

「人に不快を与えない福音」「文化に合わせてメッセージをソフトにする」などが説かれた。

「罪」という言葉はきつい印象を与えるので、「弱さ」に変えるべきだと。

中には堂々と「キリスト教の福音が暗く感じるのは、『罪』とか『犠牲の血』とか否定的な言葉から始まるからだ」と主張する人もいた。

本物の文化とは、「真理」を第一とする。だから、人気を無視しなければならない。

今では、聖餐式にノンクリスチャンを加えたり、ノンクリスチャンを兄弟と呼ぶ教会すらある。

「差別はよくない」と。

聖餐式にノンクリスチャンを加えたり、ノンクリスチャンを兄弟と呼ぶことは、キリストの十字架を無視することを意味する。

キリストが尊い血を流されたのは、ノンクリスチャンをクリスチャンにするためだ。

ノンクリスチャンはキリストの体なる教会の内側にはいない。

なぜならば、贖われていないからだ。

贖われていないということは、罪を処理されていないということであり、それゆえにキリストの体なる教会に加わることができない。

濾過して処理されていない水を水道水として使えるだろうか。

ノンクリスチャンを聖餐から排除することは「差別」ではない。

大学に入試があるのは差別だろうか?

どの組織でも「選別」は不可避だ。

我々が兄弟姉妹と呼べるのは、ただ贖われた人だけだ。

キリストにあって我々クリスチャンは互いに兄弟姉妹だ。

しかし、ノンクリスチャンは、キリストのうちにいないのだから、兄弟姉妹ではない。

安易に差別を撤廃してノンクリスチャンを兄弟姉妹と呼ぶことは、暗に「キリストの十字架の犠牲なしでも救われる」ということを表明することになる。

実際、ビリー・グラハムは、「救われるために特定の信仰は必要ない」と明言しているので、ビリー・グラハムを受け入れる教会がそのようなことを行っても不思議ではない。

今の福音派が次第にこのようなエキュメニズムに陥っているのは、霊的な堕落であり、キリスト不在の信仰、異端化である。

福音派は、ほぼ異端化した。

ノンクリスチャンを聖餐に加えたり、兄弟姉妹と呼ぶことは、この霊的な現実の現れである。

福音派は、こうしてバベルの塔の一員となった。

普遍救済主義を唱えるバルトの侵入を許している改革派、長老派も、同じようにこの道をたどるだろう。

残されたのはどこか。

我々以外にいないのではないか。

教会がほぼ全滅した。

今、TV業界を見ても、人の顔色や視聴率を狙って、無難な番組しか作れなくなり、面白みにかけ、ついには逆に視聴率の低下につながっている。

「自分の命を救おうとする者はそれを失い、自分の命を捨てる者はこれを得る」というイエスの御言葉を肝に銘じるべきだ。

 

 

2010年9月10日

 

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