勝利は聖書信仰の人々に与えられる


知人から「あなたは傲慢だ。」と言われたことがある。

理由は「聖書に固執して意見を曲げないから」だと。

言葉の定義の問題である。

聖書における「傲慢」の定義とは、「聖書をあらゆることがらにおける最高権威として持たないこと」である。

だから「聖書に固執する」人は、傲慢ではない。

聖書の定義によると、そのような人は「忠実」「謙遜」な人である。

なんらかの意見を持つ場合に、その意見を聖書から吟味するという姿勢のない人は傲慢である。

パウロは、このように述べた。


私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、・・・(2コリント10・5)

ここで「高ぶり」とは、「さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つ」ことである。

神の知識と矛盾する考えは、「打ち砕」かれ、神の知識に反する「はかりごと」は「とりこにされてキリストに服従させ」られる。

これは運命である。

これは神の計画であるから、必ず成就する。

つまり、すべての傲慢な考えは必ずキリストによって征服される。

悪い傲慢な時代である現在、神の言葉はさげすまれ、人々は聖書を馬鹿にしている。

聖書に固執する人々は傲慢呼ばわりされ、自由に思考する人々は賛美されている。

このような時代は必ず終わる。

神はむなしい騙しごとの哲学の時代を終わらせ給う。

勝利は、聖書信仰の人々に与えられる。

 

 

2009年1月23日

 

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