なぜ聖書なのか?5


[帰納法的な信じ方も間違いではありません。聖書では、「被造物を見れば、神の存在と本質が分かる」とあります。

考古学的な証拠や、科学的な証拠などを信仰のためのステップとして用いることは間違いではないです。

ただし、証拠がないと信仰できないという姿勢が徹底され、懐疑から出発し、神を見下す態度があれば、神はいつまでたっても分かりません。神は高慢な人の前に自分を隠されるからです。

「神がいるなら出て来い」というような人には神は現れません。

神を信仰するために自分の身を低くし、その上で確信を得るために証拠を利用する態度は正しいと思います。]

上記は、以前自分が先生に質問した時にもらった先生からの回答です。

ここに書いてある    「考古学的な証拠や、科学的な証拠などを信仰のためのステップとして用いることは間違いではないです。」
             「証拠がないと信仰できないという姿勢が徹底され、懐疑から出発し、神を見下す態度」
 
1、この2つはどのように違うのですか?
2、この2つは何が違うのですか?
3、同じことではないのですか?

信仰を求める人が確信を得るために証拠を利用する態度は、神に服従するという願いから出ていますが、「神を証明しない限り信じない」という態度は、神よりも自分が上に立っています。

聖書では、「へりくだって自分を低くしなければ神は分からない」とあります。心の態度が重要なのです。

3、どちらも聖書を証拠無しで信じれない「ヒューマニズムの前提」から始まっているのではないでしょうか?
4、だからどっちも罪なのではないでしょうか?

人間には迷う場合もあるでしょう。それは、罪ですが、しかし仕方がありません。

神はそのような人間の弱さを理解してくださり、証拠となるような出来事や事実を教えてくれたり、体験させてくださいます。

ですから、証拠が必要な人が必ずしも傲慢ということになりません。


また他にも質問があります。

1、どんな思想や哲学や宗教も循環論証ですか?

これはすでに説明しました。

2、数学も循環論証ですか?

そうです。


3、数学や科学と言うのは哲学を基盤にしていますか?

基盤にしています。


4、先生は理性を前提にすることはだめだと思いますか?

理性は道具になっても土台にはなりません。

つまり、聖書啓示を土台として、それをよく知るために理性があります。

聖書啓示を上からジャッジするような姿勢を理性主義者といいます。

ヒューマニズムは、このような立場です。

「世界一高い山よりも高い山に登ることが私の夢です」という人の夢は永遠に実現しません。

聖書は神の言葉ですから、世界一高い山であり、誰も見下ろすことはできません。

聖書を見下ろしてジャッジした瞬間にその人は、嘘を信じたことになります。

5、理性を前提にすることは人間を認識の初めにすることですか?

デカルトは「我思うゆえに我あり」といい、自分以外のすべてを懐疑の対象にしました。

そして、この考えている自分は疑いようもない事実なわけだから、これを確実な出発点にしようと言いました。

そして、自分の周りに認識を拡大することが彼の認識論であり、また、現代人の認識論でもあります。

聖書や神の存在も、人間の判断に依存するようになりました。

ここで、神と人間の主客が転倒しました。

人間は神の救い主になり、人間の理性で、聖書を救って上げるという方法が取られました。

疑う人々に対して証明を行い「だから神様はいるんですよ」と。

人間は、オーディションの会場に来た神様を審査する試験官になりました。

神様は人間の前で踊ったり歌ったりして、自分のすばらしさを証明しようとする存在として描かれました。

だから、ヒューマニズムは冒涜なのです。


6、先生は聖書を「絶対的な前提」にしろと言いたいのですか?

そうです。

7、聖書を正しい前提なのか「調べたり」、「証明したり」、「判断したり」、「他の前提(宗教や哲学や科学)と比較したり」することは罪ですか?

心の有様次第によって、罪になります。

8、人間は聖書を「疑ったり」、「調べたり」しないで「絶対的な前提」とするべきなのですか?

そうです。

9、人間は「証拠」や「論理」や「科学」や「思想」や「風習」や「歴史」などと関係なく「問答無用」で聖書を「絶対的基準」として「絶対的権威」として
  「絶対的前提」とすべきなのですか?

そうです。

10、再建主義のキーワードは「聖書の前提」ですか?

聖書を前提するという立場は、改革派の主要な教理の一つであって再建主義独自の教理ではありません。

11、聖書は「なぜ正しいのか」という疑問をなげかける「時点」で罪ですか?

どういう心がけかによります。神や聖書を審査する態度であれば、罪になります。
神の正しさをさらによく知りたいという信仰から出た疑問は間違いではないです。

12、聖書は「なぜただしいのか」という疑問をなげかけることは「禁句」ですか?

意味が分かりません。

13、クリスチャンが ノンクリスチャンに伝道する際に、
  
    「あなたは前提がヒューマニズムから来ているのです。本来人間は聖書を前提としなければいけません。聖書を信じましょう。聖書を絶対的前提にしましょう。」と言った場合
  ノンクリスチャンが「聖書が正しい前提ということは証明されたのか?」と言った場合
  クリスチャンが「聖書が、《聖書は正しい》と言ってるから正しいのです」と言った場合
  ノンクリスチャンが「それは循環論証だ」と言った場合
  クリスチャンが「世の中のすべては循環論証です」と言った場合
  ノンクリスチャンが「それじゃあどうすればいいんだよ?色んな宗教とか思想とか科学が《俺たちが唯一正しいんだ》と言ってるぜ。俺はなにを信じればいい?世の中がすべて循環論証だったら絶対的な真理を見つけることは不可能じゃないか!俺は不可知論者になって全てを相対的に捕らえることしいかできないじゃないか!結局聖書を前提にできないじゃないか!」
と言った場合、我々クリスチャンは何というべきでしょうか?

神を上から見ているのは間違いだよ、と教えてあげることです。

身を低くして神を求めてごらんと。そうしたら分かると。

繰り返しますが、「万人は神を知っており、聖書が正しいことも知っているのです」。


なぜならば、「神が明らかにされたからです」。聖霊は、自然や聖書に向き合う人の内側に働いて真理を示されます。

しかし、傲慢な態度でいる人に一生懸命神を証明しようとすれば、それは、冒涜の罪を犯すことになります。

相手の「神がいるなら見せてみろ」という土俵に入るからです。


14、13のような場合はやはり「聖書の啓示」を素直に受け入れることしかできないですよね?

そうです。

15、自然を通して神の存在を表す被造物をみることにより神を信じる方法は罪でしょうか?

すでに述べました。

16、科学でさえも宗教的や思想的な前提から始まっているのですか?

すでに述べました。


17、神が人間に律法を与えたり、人間を創ったり罰したりすることは神が何かに拘束されて(何かの目的で)やったわけではないんですよね?

神の自由意志です。神は最高主権者なので何にも拘束されません。

18、神は、神自身の完全な自由意思によってすべてを行動しているのですよね?

そうです。


19、

「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」(ローマ1・20)

我々人間は、神の目に見えない本性と永遠の力と神性を証言する無数の証人と証拠に取り囲まれている。

上に書いてある無数の証人や証拠の声を聞いて聖書を信じる 信じ方は罪ですか?

逆です。聖書はそのような信じ方をしなさいと命令しています。


20、なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。 」(ローマ1・19)
   神は被造物を通して明らかにされたのですか?

自然や人間など被造物は、神の自己啓示です。

これを自然啓示といいます。それに対して聖書を特別啓示といいます。

 

 

2009年3月14日

 

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