<Peter様>
ご丁寧な解説を感謝いたします。
ベニーヒンについてその後のご意見も拝読しました。ちょっとしばらく消化期間をおきたいと思っています。
ところで、そのベニーヒンにずいぶんと入れ込んでおられるある牧師(自称福音派と聖霊派の中間だそうです)がモーセの10戒について次のように述べています。「十戒は、守らなければ天国に入れないというような類のものではありませんが、・・・律法は現代も生きている」と言われるようです。
http://sakura.huua.com/cgi-bin/diary04/cdiary.cgi?room=kanno
1)ちょっと矛盾した説だと感じましたが、こういった理解はやはりリベラルの影響なのでしょうか?
<tomi>
律法は、我々の救いの条件ではないですが、しかし、我々が正しく、祝福にあふれた生活をするための条件です。この先生の考えは正しいと思います。
ただ、一般的にクリスチャンが誤解している点ではありますが、「救いの条件ではない」ということは、「じゃあ、どんな生活をしても、たとえば、偶像礼拝をしても、天国に行けるのか?」ということを意味するものでもありません。
前に書いたように、パウロは、はっきりと「偶像礼拝などを犯しているクリスチャンが天国に入ることはありえない。」と述べているからです。
「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。」(1コリント6・9−10)
じゃあ、ある人は、こう尋ねるでしょう。
「そんな、完璧な人間などいるだろうか。完全に偶像礼拝から逃れられる人間がいるだろうか。」と。
たしかに「いません。」
人間は完璧になれません。それゆえ、偶像礼拝を完全に止めることができる人間はいません。
じゃあ、どうやって救われることが可能なのでしょうか。
それは、「人間的にできるだけのことはする」ということです。
パウロは、第1コリントにおいて、
「私はできる限りの悔い改めをしているので、自分の目で見てやましいところは少しもないが、神の目で見れば罪人である。しかし、神の目で見て罪人ではあるが、人間的にできるだけのことはしているので、神の賞賛に値する人間である。」と述べています。
しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。
私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。
ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。(1コリント4・3-5)
神の絶対評価にかなうことがたとえなくても、人間は神からの評価をいただくことができるのです。
それには、「自分にとってやましいところをなくする」ということです。
人間はこれだけでいいのです。
自分が思い出せる限りの罪を告白して悔い改めること。
残りの「自覚できない罪」については、神は「もうそれ以上いいよ」といってくださる。
「徹底して悔い改めないと気がすまない」という完璧主義に陥ると、今度はそれをサタンが利用するようになります。
「おまえは罪を犯しているから絶対に救われない!」というささやきが聞こえてくる。あまりにも自分の罪の処理にこだわる人は、絶望に陥れられる。
2つの極端を避けなければならない。
(1)クリスチャンは何をしても天国に行ける、という無律法主義。
(2)クリスチャンは徹底して罪を悔い改められなければ救われない、という律法主義。
我々にとって、律法は、自分の不完全さを自覚するための試金石であり、また、キリストによる赦しを求めるきっかけです。
可能な限りの告白をしたら、あとは主に任せることです。
それ以上は自分の責任ではない。
<Peter様>
2)繰り返して恐縮ですが、モーセ律法からみたベニーヒンや君が代の評価はどのように考えればよいでしょうか?
<tomi>
すでに申しあげたとおり、君が代など国歌は、近代の国家主義において、偶像礼拝の象徴です。
聖書において、国とは、「家族による地上支配」を助ける番犬です。
アダムとエバに与えられた「地を従えよ」との命令を彼らが忠実に実行できるように、助けるために与えられた存在です。
家族の財産や命、会社、工場などを悪人の略奪や侵略から守るために存在する「秩序維持機能」です。
しかし、ヘーゲルの国家主義(彼にとって国とは地上を歩く神であった)以来、近代国家は、神の代わりをやるようになった。
それは「偽メシア」であり、神に代わって人々を保護し、学校に上げ、生活を保障する。
このシステムは、「神などいらない、人間だけでやっていける」と考えるヒューマニズムによって作られたものであり、それゆえ、国家主義は偶像礼拝なのです。
神から離れ、自分に帰依するようになった人々を国家は利用するようになります。
徴兵に取り、自分とはまったく無関係な国際紛争や他国侵略の戦争にかり出し、生命を捧げさせます。
悪魔礼拝にいけにえが伴っていたのと同じことです。
幸せを与えるはずのこの「神」は本性をあらわし、実は帰依者を食い物にする新興宗教の教祖であることが暴露されます。
君が代はこの国家崇拝の道具として利用されてきた。
靖国も同じです。
遺族会が首相の靖国参拝を希望しているらしいが、あの神社は、「国民を国のいけにえに捧げるための祭壇」です。
「英霊」なんていうきれいな言い方は、実態を隠すためのごまかしです。
「死んだら神として祭ってあげるから」となだめすかして、軍艦に体当たりさせる。
イスラムの自爆テロを見たらわかるでしょう。
若い男や女をたぶらかして、「死んだら天国ですごい報いがあるよ」とささやいて、爆弾をつけて送り込む。
全部「利用」なんです。
サタンは、人間を利用しようとしている。そして、国という化け物をつかって、まちがったもののために命を捨てさせる。
サタンは、こういった犠牲が大好きです。
こういう巧妙な仕組みを見抜くことができない限り、国民は国にだまされるだけ。
国が番犬以上のものになることを阻止しない限り、犠牲者は絶えないでしょう。
モーセ律法第一戒の原語は、「他の神々を私の顔の前に置くな」という意味です。
神を無視し、神の上に何かを置くことがすべて禁止されている。
だから、他の主は我々には存在しない。
どの領域においても。
たとえ世俗の領域においてであっても、この宇宙の一点においても、神の御顔の前に何かを優先して置いてはならない。
だから、「この世は堕落しており、直らないから、地上的制度などを改革する必要はない。政治や経済などにクリスチャンは関わる必要はない」というようなディスペンセーショナリズムのキリスト教は、偶像礼拝であり、そのような信仰を持つクリスチャンは御国を相続することはできないのです。
私は、あの記事においてベニー・ヒンの考えに間違いを見ることはできませんでした。
しかし、私がビデオを見たり、会場に足を運んだりして感じた「現代の癒し手」の福音は、彼らがディスペンセーショナリズムを奉じているために、福音ではなく、人間中心のヒューマニズム、それゆえ偶像礼拝であり、悪霊のにおいを感じる以外にはなかったということを付け加えさせていただきたいと思います。