再建主義を覇権主義という人がいる。
「クリスチャンは、世界を獲得しなければならない。」というからと。
しかし、我々ではなくとも、ディスペンセーショナリストのプレ・ミレも同じことを言っているではないか。
再臨の後の千年王国に、クリスチャンは世界の支配者になると。
覇権主義ではないのは、ア・ミレ(無千年王国主義)だけだ。この地上においてクリスチャンが覇権を取ることはない、と教える。
聖書は、覇権の獲得を教える書物である。
「地を従えよ」との神の命令は、たしかに覇権主義である。
「従える」という原語は、「踏みつける」と同義である。
人間は、地(「世界」と同義)を踏みつけなければならない、と教えられている。
洪水から救われたノアにも同じ命令が与えられている。
神は、クリスチャンに世界の覇権を取ることを命じておられる。
キリストは、事実世界の覇権を取られた。
「私はすでに世を征服した」と宣言された。
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16・33)
何度もこのHPで述べたが、ここで「勝つ」と訳されている言葉は、「征服する」という言葉ニカオーの完了時制が用いられている。完了時制は、過去に実現した状態が現在でも続いていることを強調する意味を持つ。
だから、ここでイエスは「世界を征服し、今も征服している」と言われている。
これが覇権でなくて何だろうか。
教会は、覇権を握られたキリストの体である。ということは、クリスチャンも世界の征服者であるということになる。
事実、パウロはクリスチャンも王であると述べている。
キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。(エペソ2・6)
「ともに天の所にすわらせ」られた者とは、キリストとともに王であるということでなくて何だろうか?
ここで、再建主義批判者はこう言う。
「クリスチャンは、力ではなく、弱さを誇るべきではないですか?」
そのとおり。聖書は、我々に「力ではなく、弱さを誇れ」と言う。
もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。(2コリント11・30)
このHPにおいて繰り返して述べているように、我々が獲得する覇権とは、武力や暴力によるものではない。
イエスはこう言われた。
柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。(マタイ5・5)
「柔和」つまり「謙遜」な者が、世界を相続する。
神が覇権を取らせようとしておられるのは、武力や経済力を誇る者ではなく、謙遜な者だ。
神の前に低く頭を垂れることのできる素直な人間。
神以外のいかなるものにも頼れないと感じている「心の貧しい者」こそが、覇権を握る。
この例がヨセフである。ヨセフは、牢獄の中において権威に忠実に仕えたので、牢獄の中で責任ある立場に置かれた。
奴隷としてエジプト人の主人に忠実に仕えたので、ついには王の次の位についた。飢饉を予測し、食料を備蓄して売りさばき大もうけした。
「覇権」や「支配」と聞いて、「傲慢」を連想するのは、ノンクリスチャンの体制に慣れてしまったからだ。
神の前に弱い者、誇れるものがないと感じている者は、逆に力と栄光を与えられる。
我々が覇権を獲得する方法とは、このように逆説的だ。
「弱いことを誇る謙遜な人間は、政治的権力や経済力を得るべきではないのでは?」というならば、永遠に地を相続できない。
じゃあ、クリスチャンは、政治家や首相や大統領になってはならないのだろうか。
会社の社長や学校の理事や幼稚園の園長になると信仰を捨てることになるのだろうか。
支配=傲慢ではない。
覇権=強さではない。
世界を良い方向に変えるには、善人が覇権を取り、強大な経済力を得る以外にはない。
しかし、その覇権や経済力は、力や傲慢によって得られるのではない。
あくまでも我々は、聖書契約的にものを考える必要がある。モーセに与えられた聖書契約は、神の法への服従によって覇権を獲得することを教えている。
私が、きょう、あなたに命じるあなたの神、主の命令にあなたが聞き従い、守り行なうなら、主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせない。ただ上におらせ、下へは下されない。(申命記28・13)