「神学」のない教育は自滅する


「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。しかし律法を守る者は幸いである。」(箴言29・18)

ここで「幻」とは、「律法」と解釈することができる。なぜならば、前半と後半は対句になっているからである。

つまり、「幻がない→放縦になる」が、「律法を守る→幸いである」となっている。

「東京都が中学生以下のセックスを禁止する」というニュースの中において、産婦人科医が出てきて、「もう収拾がつかない状況だ」といっていた。

もう子供たちの暴走が止まらないのだと。

何が原因なのか?

「幻がない」のだ。だから「民はほしいままにふるま」っている。

性教育の授業において性交渉の際にはコンドームをつけよう、と教えて、性交渉が結婚とどのように関係しているか、性交渉の意味についてまったく教えないものだから、「じゃあ、やってみるか。」と考える子供が出てくるのも当然だ。

今日の暴走の主要な原因は、日本の学校教育に「神学」がなかったからだ。「技術」だけ教えても、「倫理」を教えることができなければ、子供たちの暴走を抑えることはできない。

しかし、学校教育は、神を無視しているから、神学などあるはずもない。だから、子供たちに理由を明示できないのだ。

「そんなことしちゃいけません。」といえば、「なぜしてはいけないのか。誰にも迷惑かけていないのに」と反論されてしまう。

先日のTV番組で、ジェンダーフリー教育について、教育者とタレントが口角泡を飛ばして議論していた。

まず、男女を性によって区別するな、と考えている教師が多いのに驚いた。(こんな教師に子供を任せられるか?)

彼らも、彼らに対して反論するタレントも、「なぜ男らしく、女らしくあるべき(べきではない)か」という自論に理由をつけることができなかった。

そうだろう。どちらも「神学」がないのだから。

どちらも「価値判断の最高権威は人間である」というヒューマニズム教育を受けてきたのだ。

盲人が盲人を手引きしているようなものである。

神を参照点として持たず、人間だけで頭をひねってどんなに考えても、結論はでないだろう。

人間を越えた者、創造者による権威づけというものがなければ、「小中学生がセックスをしてよいか悪いか」という議論も「男らしく、女らしくあることは間違いか」という議論も、結論は出ないだろう。

恐らく、政府は、秩序維持という観点から「結論は出ない」ということで満足しないだろうから、「理由なしの強制」に走るだろう。これ以上の小中学生の性的暴走を黙認はしないだろう。

そうすれば、結局、現実の世界において「律法に縛られない自由」の社会など幻想だ、ということが証明されてしまうのだ。

タガを締める者は必ず現われる。

自分で自分のタガを締めるか、それとも、国に締められるか?

性の解放、ジェンダーフリーなど唱えているトンデモ教師たちは、自由を唱えることが自分の首を締めることになることにはやく気付くべきだ。

 

 

2004年9月27日

 

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