律法はいのちを与えないか?18


<LUKEさん>

>メルキゼデク系律法は、レビ系律法の本体化、普遍化、超民族化です。

実体であるキリストのいのちを異邦人にも分与し得、いのちの御霊の法則を適用し得るという意味で、同意です。

私の論点、お分かりいただけました?ポイントはいのちを得るかどうか。つまり「肉から生まれるものは肉であり、霊から生まれるのは霊である。神の国に入るには御霊から生まれなくてはならない」わけです。これがキリストのいのちの分与(ディスペンス)であるわけです。

<メルキゼデク系律法=いのちの御霊の法則>であることを認めていただけると大いに議論が実り豊かになると考えます。そしてもしここまでをご理解いただけるのでしたら、次の論点、エクレシアとイスラエルの関係にも進めるとかと思います。

<tomi>

「実体であるキリストのいのちを異邦人にも分与し得、いのちの御霊の法則を適用し得るという意味で、同意です。」

私が述べたのは、そういう意味ではありません。

「メルキゼデク系律法は、レビ系律法の本体化、普遍化、超民族化です。」と述べた意味は、

メルキゼデクは、イスラエル民族がまだ起されていない時点ですでに祭司だった人物だったので、超民族的だということです。

レビ系律法は、イスラエル民族に適用された「地域・時代・民族限定的」の律法でした。

それは、神が、イスラエル民族というモデルケースを設定して、そこで神の御心を啓示しようとされたからです。

ユダヤ教の過激派は、この設定を誤解して、「この律法は、我々だけのものだ。異邦人には与えない。」と言いますが、

そもそも神がアブラハムを選ばれた最終目的は、ユダヤ人に栄光を与えるためではなく、「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」(創世記12・3)ことにあった。

イスラエル人は、神のモデルケースとして、聖書を与えられ、歴史の中で訓練を受けて、神の取り扱いがどのようなものであるかを実物教育された。

それは、全世界の民族の教訓とするためです。

「そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。
そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、
みな同じ御霊の食べ物を食べ、
みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。
にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。
これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。」(1コリント10・1−10)

実際、我々全世界の異邦人クリスチャンは、旧約のイスラエル人の出来事を通じて、教訓を学びとっています。

レビ系律法は、全世界のすべての民族、人間に適用する普遍的・超民族的・超時代的な律法(メルキゼデク系律法)の予型だったのです。

たとえば、突くくせのある牛を放し飼いにするな、との律法は、不注意・過失によって人に危害を加えることの禁止命令です。

これは、単に牛を飼っている人だけに適用されるのではなく、ユダヤ人・異邦人を問わずクリスチャンは、もっと普遍的な意味として解釈すべきです。

たとえば、酒酔い運転の禁止などです。明らかにそれを行えば危険で、他人に危害を加える恐れがある行動を取るな、との命令と解釈すべきです。

旧約律法を単なる「民族的・時代的・地域的」戒めと考えて、それ以上の解釈をしないというのは間違っています。

イエスによって、レビ系律法は、メルキゼデク系律法に発展した。

メルキゼデク系律法とは、普遍的・超民族的・超時代的律法なのです。

我々は、現在、旧約律法を読むときに、それをレビ系律法として読むのではなく、それが普遍化され、バージョンアップされたメルキゼデク系律法として読まなければならない。

このことをパウロが模範として示しています。

「モーセの律法には、「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」と書いてあります。いったい神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。
それとも、もっぱら私たちのために、こう言っておられるのでしょうか。むろん、私たちのためにこう書いてあるのです。」(1コリント9・9−10)

つまり、これは、もっぱら牛のための戒めではないのだ。もっと普遍的な意味として解釈しなければならない、と。すなわち、

「主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定めておられます。」(1コリント9・14)

という普遍的原則を導き出している。

メルキゼデク系律法とは、モーセ律法のバージョンアップであり、それは、確立されたモーセ律法なのです。

だから、メルキゼデク系律法を守るには、モーセ律法と同じように、その文言の一つ一つについて調べ、その意味を探り、それから現代に通用する戒めを学びとる必要がある。

「御霊に従う」とか「御霊のいのちの法則」とか言う言葉には、どこか「霊の支配を受ければ、律法の小さな文言にこだわらなくても自動的にそれらを成就したことになるのだ」という意味が含まれていると観じます。

もしそうなら、これは、まったくの誤解です。

そのような理屈が通用するなら、極端な話、聖書なんていらないということになる。

たとえば、集会において霊に満たされて、高揚感に包まれていれば、自動的に律法も守れるし、罪も犯さなくなって正しい生活ができる、いちいち聖書を研究する必要はない…。

こんな集会に何度か出たことがありますが、まったくおかしい。

私が最近話題の集会に出席して、一貫して思うのは、「これらの集会には、御言葉が欠如している」ということです。

ある預言の集会では、信徒が次々と立ちあがって預言をする。しかし、その預言というのは、実に空虚で、あたりさわりのないことに聞こえた。

そして、預言をする人々は傲慢で、「我々だけが選ばれた存在だ」というような空気をかもし出している。

また、ある聖霊を受ける集会では、講師が「みなさん。聖書を勉強しても暗くなるだけです。アメリカの精神病院の入院患者の○割がクリスチャンなんですよ。議論するのではなく、賛美しましょう。」と言っていた。

たとえ精神病院の入院患者にクリスチャンが占めるパーセンテージがその数字であったとしても、その責任を「聖書を勉強する」ということに帰することはできません。

このような反知主義(anti-intellectualism)は、書かれた啓示から離れることになり、サタンに大きな機会を与えることになるので非常に危険です。

すでに述べたように、メルキゼデク系律法になったからと言って、一つ一つの言葉にこだわらなくてもよくなったわけではない。

それは、研究されるべきです。そして、議論が起こらなければならない。一つ一つの言葉は神の言葉なのですから、その正しい意味を見出すために学問的議論が起こらなければならない。

聖書と聖霊は、聖霊の外的照明と内的照明として、不可欠であり、どちらも揃っていない限り、人間は正しい知識を得られないというのは、正統的プロテスタントの基本中の基本であり、そこから離れるいかなる運動にも我々はノーといわねばならない。

 

 

2005年10月15日

 

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