字義的解釈と象徴的解釈の区別43


<Q>
人間はサタンに騙されたので救いがある。はエバが蛇に責任を転嫁した事になるのでは。と思うのですが。又はセミ、ペラギウス主義のように人間は首の皮一枚つながっている。もしくは神の救済は救われる存在、救われない存在、両面を持ち合わせている人間だからこそ。一方では全的堕落と言い。又、一方では救いは決定されていると言う。一見、矛盾した様に感じるのはサタンと人間は別物で全能者ゆえに差別がある。と言う事を表すための説明だったのでしょうか。御意見をお願いします。

<A>
「人間はサタンに騙されたので救いがある」と言ったのは、繰り返しになりますが、「救いの余地がある」ということであって、「救われるに値する」ということではありません。

サタンは自分から堕落したので、贖いの余地がないのです。
しかし、人間は騙されたために堕落し、自らすすんで堕落したわけではないので、贖いの余地があります。
しかし、贖われるのは当然であるということではありません。

「私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。」(1テモテ1・13)

わけがわからない時に犯した罪と、十分な知識がありながら犯した罪の重さには当然違いがあります。

律法では、知りつつ触れたのと同様に、知らずに死体に触っても、やはり汚れたことになります。

律法では、過失と故意では、罪の重さが異なりますが、しかし、過失であっても罰は免れませんでした。

過失による罪を犯した場合でも、贖いの動物を捧げなければなりませんでした。

 

 

2007年2月13日

 

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