非6日創造論者へ2
現代人は、聖書を丸ごと信じる人々をあざ笑っている。
聖書を信じる人々をあざ笑う人間は、神からあざ笑われる。
神は彼の傲慢を裁く。彼が弱い人間に過ぎないことを徹底して悟るまで試練の火の中に放り込む。
試練に遭って、悔い改める機会を与えられた者はまだ幸いだ。
何のおとがめもなければ、その人は捨てられているのである。
進化論など、ちょっと考えればバカ丸出しの考えだということくらい分かるはずだ。
しかし、人間はあまりにも愚かだから、進化論に騙され、創造に疑いの目を向けた。
神の言葉を裁くことができるほど賢い者だとうぬぼれた。
考えてみよう。
神の言葉は間違いだ、と叫ぶ人の脳裏に浮かんでいる神とは「神」ではないのだ。
神が無から世界を創造されたのであれば、神以外に究極の基準は存在しないはずだ。
仮に神よりも前に世界が存在したのであり、神が万物の根源でないとするならば、神よりも前に基準が存在したと考えることもできるかもしれない。
しかし、神よりも前に基準はまったく存在しなかったのであるから、神を裁くという行為そのものが自己矛盾しているのは明らかである。
神が本当に神であるならば、神を裁くなどということは言葉の矛盾である。
クリスチャンよ。いつまで創造と進化の間でふらついているのだ。
神の言葉を信じ切りなさい。
そこから一歩も離れてはならない。
神が万物の創造者であり、第一原因、不動の基準であるならば、その御言葉も不動の基準である。
御言葉に手を触れて改造したり、批判したり、疑ったりすることは、冒涜である。
御言葉は、聖にして不可侵である。それに疑いをかけることはタブーである。
誰か被造物の言葉を無謬であるとするのは偶像礼拝である。
しかし、神の御言葉を無謬であるとするのは、至極当たり前のことだ。
御言葉は無謬以外のいかなる形容詞もつけられない。
我々の強さは、無謬の御言葉、宇宙のすべてが振動しても、絶対に動かない神への信仰のうちにある。
我々が不動の絶対者を信じることができず、その御言葉も信じることができなくなれば、我々は敵のよい鴨である。
いいように蹴り回されるのがオチだ。
6日創造説をバカにするクリスチャンよ。
自分を知者とし、進化論を受け入れるクリスチャンよ。あなたは、結局、頼るべき土台を自分で破壊したのである。
人生の最大の苦しみが襲ってきたときに、あなたが愛していた高等批評の神はあなたを助けるだろうか。
その保証は?聖書は人間の著作だと言っていたんでしょう?
どうしてその神はあなたを助けるのか?
進化論者のクリスチャンは、自分の信仰を破壊し、自分を根無し草にした大たわけである。
2005年7月12日
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