束縛する信仰を打破せよ2


律法はヘブル語でトーラーである。それは、direction(導き),instruction(インストラクション), law(法)という意味だ。

トーラーは、インストラクションである。

何かの教室に通う。そこにインストラクターがいる。

彼らの指導に従えば、その道において進歩する。

しかし、従わなければ進歩できない。

トーラーは、インストラクターである。

だから、トーラーに従わなければ正しく進歩できない。

トーラーに従わなくてもよいと説く今のキリスト教の教えは、それゆえ人を進歩させない教えである。

今の教えでは、旧約律法は無視できるという。

あるクリスチャンがこのHPを見て「tomiは、公開石打刑を行えと言う」とさかんに悪口を言っているが、恐ろしい罪である。

律法を裁いているのだから。

インストラクターを批判し、インストラクターに従うなと扇動するような人間は、その教室から追い出される。

人間にとって神のインストラクターであるトーラーを守るべきではないと言う人間は、この世界から追い出される。

トーラーは、インストラクターであり、ディレクションでもある。

ディレクションとは、導きである。

それは、ロード・マップのようなものだ。もっと今流に言えばカーナビか。

トーラーに従わない人は、カーナビに従わずに勝手にいろんな道を選択して、結局どこにもたどり着けない人のようだ。

トーラーに従わない人は、勝手な道順を教えることを好む。

トーラーを無視すればするほど教会は禁欲主義になる。

禁欲主義は、「壊れたカーナビ」である。

禁止しなくてもいい道を禁止する。

普通の通行可能な道で「ここを行くな。ここで止まれ。Uターンしろ」と言う。

だから、非効率極まりない。

トーラーを無視する人々は、ことごとく、1.やってもかまわないものを行わず、2.やってはいけないことをやる人である。

だから、トーラーを無視する教え、ヒューマニズムや今のキリスト教は、人々の生活や生涯をめちゃくちゃにする。

教室のインストラクターに従えば、最短コースで上達できる。

どの道でもそうだが、先達の意見は貴重だ。

なぜならば、我々が体験していないことをすでに体験して危険性やコツを知っているからだ。

だから、先達の指導を軽んじることは自分にとって有害無益である。

キリスト教についても同じ。

トーラーは、我々のインストラクター、指導書である。

人間の知恵に頼って、ぐるぐる堂々巡りしたり、危険な道に入るのは馬鹿らしい。

クリスチャンになってトーラーにしたがった人生を歩こうではないか。

 

 

20010年1月8日

 

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