日本人が人生の正常なコースを作りたがるのは神の働かれ方を知らないから
(1)
新しい年が始まりました。
ちょうど10年前に、「自分の十字架を背負って私に従え」という御言葉を長崎において示され、埼玉県寄居町において独立伝道者として召され、3人の牧師から按手礼を受けて伝道を開始しました。
友人のK氏も同じ年に、伝道者としての誓いを立ててともに活動を開始しました。しかし、その時から猛烈な戦いがはじまりました。
サタンが送ったとしか思えない悪人によって友人は大きな借金を背負わされ、事務所をたたまざるをえなくなりました。しかも、この悪人が根も葉もない噂を教会において流したため、彼は教会からも追い出されました。
神は、私たちにある働きをさせるために、悪人を用いることがあります。神が、ある悪人の罪が発現することを許し、あえて中傷、追い出し、迫害をさせて、私たちを新しいステージに追い立てることがあります。
新しいステージに導かれたら、古いステージは卒業したと考えるべきです。出戻りは禁物。帰ろうとすると、元の仲間との間にできた傷はますます深まることが多い。
熊が子離れするときに、親熊は、なおもついていこうとする子熊に襲い掛かって無理やり別れさせるといいます。
神様は、古い仲間の罪の性質を利用して、仲たがいさせ、私たちにいたたまれない気持ちにさせることがあります。
(2)
独立してから、毎週、兄弟姉妹と礼拝を持っています。私は、伝道者として召されたと考えているので、牧師としての働きを自分の重荷と感じていません。
献身したら牧師にならなければ怠けていると考える風変わりな人が日本には多いのですが、何も教会の働きは牧師だけではありません。
パウロは聖書の中において、様々な賜物を挙げています。教職者の中でも牧師、伝道師、教師など様々な賜物があります。
私たちは、自分に与えられた賜物を知って、その賜物に応じて働けばよいのであって、何かの型に自分をはめる必要はまったくありません。
牧師の資質には、自営業者としての経営の才能があります。ただ教えるだけではなく、一つの組織をまとめてそれを効率よく運営する才能が必要です。
人間は、自分が職業的体験を積み重ねていくうちに、自分の適性に気付いて、最適な場に落ち着くものです。
それが反社会的な活動、罪、犯罪でない限り、私たちには賜物に応じてどんな職業、働きでもする自由があるのですから、召しと適性に従って自分の気持ちがしっくりいく働きをすればよいのです。
「信徒が50人くらいいて教会堂を備えた地方教会の牧師にならなければちゃんとしたことをしていない」なんて考える必要はまったくありません。
無理に牧師になっても、向いていない人が牧師になったら、自分だけではなく、信徒も不幸です。
自分が好きなことが自分の賜物であることが多いのですから、自分が教会のために何をしたいかを考えることが賜物発見の第一歩です。
(3)
ドイツに長年住んでいて、神学校を卒業した友人が、ある日、卒業した神学校の食堂で食事をしていると、かつての恩師であるドイツ人が横に座ったそうです。
そして、「今何をしているの?」と彼に聞かれたので、「今古典語の教師になるために勉強しています」と答えると、突然大きな声で「牧師にならなきゃだめだー!」と叫んだというのです。彼は日本に宣教師として暮らしたことがあるので、その叱責は日本語でだったそうです。
友人は神学校は卒業したが、牧師になる召命を感じておらず、自分の才能を活かすには古典語の教師がよいと考えて、卒業後牧会の道には入らなかったのです。べつに何かの誘惑に負けて牧師にならなかったわけではないのです。
友人の話によれば、ドイツ人は日本人と似ているところがあって、他人の人生を型に当てはめたがる傾向が強いそうです。「神学校を卒業したら牧師になるのが当然だ」とか、「結婚は○○才までにすべきだ」とか。
聖書は、人生を型にはめなさいなんて言っていません。
聖書は、人生を聖霊の導きに委ねなさいと言っているだけです。
聖霊の導きは人それぞれ違います。
一般的なパターンはあるでしょうが、しかし、私たち人間が勝手に聖霊の働かれ方のパターンを絶対化して、それを人に押し付けるべきではありません。
ちなみに、日本人の悪いところの一つは、「〜するモンダ」という「モンダ主義」です。
「女は30歳までに結婚して、子供は2人生むモンダ」とか。
こういう考え方をするのは、神の導きを経験したことがないか、導かれたことに気付かない鈍感さがあるからなのです。
神の導きは予測不可能です。聖書を見ると、神はあえて予測不可能な導き方をして、神性とか御力を啓示なさろうとしているように思えます。
たとえば、王様を選ぶ際に、人々は背が高くて、美男子で、長男を期待しましたが、神は小柄で、美男子でもない、末っ子ダビデを選ばれました。
イスラエルの救い主キリストは、王宮でではなく、馬小屋で生まれ、エルサレムではなく、ガリラヤの片田舎で成長された。
人の人生に口出しするオセッカイな人種は、「神は人間の期待や常識を裏切られる方である」という聖書の重要な教訓を読み取ることができない鈍感な人々なのです。
2005年1月1日
ツイート
ホーム