無用なおきてを作るな
ある教会のクリスチャンが、牧師の家にテレビが2台あるのを見て文句を言った。
「贅沢だ」と。
私は、牧師がどういう生活をしようと、それはその牧師の自由だと考える。
もちろん、愛人を作ったり、罪を犯しているならば、別である。
そうじゃなくて、神の法の範囲内における行動に対して文句を言う権利は誰にもない。
いや、文句を言ってはならない。
テレビを2台持とうが、車を3台所有しようが、牧師の勝手だ。
ある人は、「牧師がゴルフをするのは不信仰だ」と言った。
ゴルフは罪なのか?
ゴルフをすることによって、神の不興を買うのだろうか?
もし、その牧師が、収入が少なく、家族がひもじい思いをしている中で贅沢な趣味を持っているならば、批判の対象になるだろうが、そうでなければ、何をしようが自由だ。
ある教会では、女性の髪形が決められているという。また、別の教会では、黒か紺の服装以外で出席することが許されないという。
そんな規則、神が決めたか?
人間は無用な規則を作って、それを「敬虔」と誤解しやすい。
これは罪である。
我々は、神のおきて以外に何にも縛られない。
何か規則を作るならば、すべてにおいて聖書的根拠を提示せよ。それができないならば、牧師も信徒も拘束するな。
ある教会の規則には「清貧を尊べ」とある。
「清貧?」
クリスチャンは貧乏になるべきだ?
聖書のどこに書いてあるのか?
経済力は、自由の源泉である。
経済力がなければ、宣教だってできない。
経済力を優先せよと言っているのではない。
誤解しないでほしい。
基本は倫理である。遵法こそ、契約の中心である。経済は、遵法に付随して与えられる祝福である。
これを逆転させるとサタンに騙される。
まず契約遵守。そして、経済的自由。
この順番は不動である。
クリスチャンが聖書にいかに固執すべきかこれでお分かりだろうか。
クリスチャンは、聖書に何が書いてあるかを知るべきだ。
そして、それに固執することによって、無用な束縛から解放され、無用な貧困から解放される。
いろいろクリスチャンの言動を見聞きして思うことは、問題の根源は「無知」にあるということだ。
そして、異なる法を作って、互いに束縛しあっている。
牧師がテレビを何台持とうが、高級車を乗り回そうが、神の法を犯していない限り、のろわれるはずがない。
だから、信徒としても、その「贅沢」が自分に害を及ぼすこともない。
安心せよ。牧師や信徒同士を無用なおきてによって拘束しあうのをやめよ。
2008年12月25日
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