神の存在を証明することは絶対にできないし、してはならない
神の存在証明を人類は試みてきたが、みな失敗した。
なぜだろう?
人・間・が・証・明・し・た・神・は、神・で・は・な・い・か・ら・だ。
(1)人間の認識能力には限界がある。
証明するという行為の基礎には、人間の認識能力が絶対であるという「前提」がある。
ここで、人間は自分が「神から派生した存在である」ということを捨てて、「人間は神から独立した存在である」という前提を立てている。
前提から間違っているから、その間違った前提で立てた議論は間違っているのだ。
分かりやすい例をあげよう。
聖書によれば、人間がものを見るには、メガネをかけなければならない。
メガネのレンズにはそれぞれ名前がついていた。
一方は「被造物用」であり、もう一方は「罪人用」である。
人間は、この2つのレンズを通して矯正しなければものが正しく見えない。
一方の「被造物用」は、アダムが作られたときからついていたレンズである。もう一方「罪人用」は、アダムが堕落したときからつけたレンズである。
人間は被造物であるため、創造者によって教えられない限り、正しく世界を認識できない。
これは被造物なるがゆえの限界である。人間は被造物として最初から、神によって以外補うことができない限界があった。
たとえば、自動車である。自動車は自分で勝手に移動できない。持ち主が鍵を差し込んではじめてエンジンがかかる。
これと同じように、神抜きでは、人間は自分で勝手にものごとを認識できない。認識したと感じているのは、勝手にそう思っているに過ぎない。
人間は、神からの超自然的な啓示なしでは、何一つ正しく認識できない。
どんなにノーベル賞を取った人でも、「神と無関係に認識している」という時点で、彼は盲目である。世界は神によって創造されたので、神によって意義付けられている。万物ひとつひとつには神が与えた意味があって、その意味を除いて認識された認識は誤謬である。
万物を神の創造のシステムの中に「体系的に」認識しなければ、人間は正しい認識を得られない。
もうひとつの限界は、罪によるゆがみである。
人間は罪を犯した時から、罪による歪曲の影響を受けている。人間は、堕落以後、あらゆる部分に病が発生するようになった。人間のすべての部分は病に陥る。それと同じように、人間は「全的に堕落している」。それゆえ、人間の理性、知性、悟性、運動能力あらゆる面において病的な症状が出ている。
それゆえ、人間は、眼鏡による矯正が必要なのである。
この2つの限界によって、人間は、「独立してものを認識することができない」。
それゆえ、このような病的な状態にある以上、神の存在証明などできるはずがない。
(2)立場上、神を証明できない
人間は派生的な存在である。派生者が根源者を証明するなど、不届き極まりない。
それは、あたかも芸能オーディションの会場で、オーディション生が、審査員に命令して、歌ったり踊ったりさせているようなものだ。
「あなたはいったい何様?身分をわきまえろ」と一喝されるのが関の山である。
被造物が創造者の存在を証明するなど、不合理もいいところだ。
(3)原理上、証明できない。
神は創造者であるから、万物は神から出ている。それゆえ、神は万物に対して主権者である。
神の創造以前に何もなかった。基準もなかった。だから、神を裁くことのできる基準などありえない。
また、神は主権者なので、「絶対に裁かれるべきではない」。
主権者とは、裁く者であって、裁かれる者ではない。
だから、神は証明の対象にならない。神に対して「存在するのかなあ?」と疑うことはできない。なぜならば、「疑う」という行為を行う者は、相手に対する審判者だから。
神に対しては、疑いは一切赦されない。神に対して唯一取るべき態度は、信仰である。
疑うことによって、人間は、「自分は神を評価できる」と考えているのである。
しかし、神は評価されるべきではなく、信じられるべきお方である。
だから、神の存在については、「はい。神は存在します。それ以外の選択はありません。」と考えなければならないのだ。
神に関して、信仰以外の態度は、ことごとく罪である。
2006年3月4日
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