聖書教理への無関心は許されない
よく終末論の議論を紹介するクリスチャンで、
「プレ・ミレでもポスト・ミレでも私はどちらでもいい。私はイエス・キリストだけだ。」
という人がいるが、「プレ・ミレかポスト・ミレどちらでもいい」という言葉そのものが「イエス・キリストだけではない」ということを証明している。
前半と後半は矛盾しているのだ。
プレ・ミレかポスト・ミレかの議論は、キリストの主権にかかわる問題であって、どちらでも変わらないどうでもいい、という問題ではない。
本当にその人がクリスチャンであるならば、自分の主観を捨てて聖書に忠実であろうとするだろう。
聖書に忠実であろうとするならば、聖書の教えに対してどうでもいいという態度は取れないはずだ。
「聖書なんてどうでもいい、私はイエス・キリストだけを信じる」というのは、
「殺人したっていい、私はイエス・キリストだけを信じる」
と同じくらいありえないのだ。
だから、終末論だけではなく、聖書教理全体への無関心は許されないのだ。
2008年2月10日
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