デボーションというものの起源
>ディボーションという行為が一つの敬虔主義的なものに感じます
昔からこのデボーションというものに違和感を感じてきました。
瞑想とかも。
イグナチオ・デ・ロヨラの「霊操」を薦めている人がデボーションを勧めているというのは、何か納得がいく気がします。
それから、「霊性」という言葉。
霊性が高いとか低いとか。
「御霊に満たされる」という言い方も、今の使われ方に違和感を覚えます。
全体的に、福音派や聖霊派が使っているこの「スピリチュアル」な用語に、何かエキュメニカルなものが含まれているように思います。
「上からの光を求める」とかいう言い方も。
これ、グノーシス→フリーメイソンも同じような「啓蒙」という考え方があって、どうもそちらに起源があるのではないか。
昔はトマス・ア・ケンピスなどの霊の訓練を何かクリスチャン的なものと考えていましたが、これもどうやらグノーシスに由来するように思えてならない。
http://www.religiouscounterfeits.org/rc_intro.htm
上記に、ローマ・カトリックがいかにグノーシスに支配されているかが書かれています。
アランブラドスとイグナチウス・デ・ロヨラ、アダムズ・ワイズハウプト、イルミナティ、そして、フリーメイソンの関係が説明されています。自分が考えていたこととまったく同じでした。
アランブラドス、そして、イエズス会は、魔女組織だとはっきりと述べています。
現在、ビリー・グラハムをはじめとして、エキュメニズムが福音派や聖霊派に浸透しているのは、すなわち、フリーメイソン、イルミナティの浸透を意味するわけで、これは、悪魔の影響が教会に及んでいることを意味する。
1990年に私が福音派を出る直前に、小牧者が始まって、「何かおかしな運動だなあ」と感じたのですが、おそらく、この「デボーション主義」「瞑想主義」が、エキュメニズムを通じてローマ・カトリックそしてグノーシスの「スピリチュアリズム」が入ってきたことに原因があるのではないかと思います。
福音派や聖霊派は、フラー神学校を通じてバルトのエキュメニズムが、小牧者を通じてグノーシスが入ってしまった。
そういうことではないかと思います。
イグナチウス・デ・ロヨラと同じにおいを感じるのが、ジョン・ウェスレーで、ジョン・ウェスレーの敬虔主義は、たしかにイギリスによい影響を及ぼしたことは確かですが、どうもキリスト教にローマ・カトリックが入ったように思います。
キリスト教の中心はイエス・キリストです。イエス・キリスト以外に救いに至る道は存在しない、というのがキリスト教の中心軸です。
たしかに「神が完全であるように、あなたがたも完全になりなさい」とか「神が聖であるから、あなたがたも聖でありなさい」という命令はあります。
しかし、どうもこのようなものとジョン・ウェスレーやイグナチウス・デ・ロヨラの聖とは違うように思います。
今の福音派の酒たばこ全面禁止のような行き過ぎは、その一例です。
聖書が禁止していないものを禁止したがるのは、背後に「拘束」が大好きなサタンがいるからでしょう。
人々を奴隷にしたがっている霊がいて、聖書を超えた禁欲を命じる。
福音派にいたころ、聖であれ、といい、酒タバコを禁止するような環境の中で、旧約律法(セオノミー)が説かれない、神の計画全体を説明しない、再建主義を拒否する、ポスト・ミレを拒否するという現象に戸惑いました。
この現象は、「聖書から外れた」という説明ですっきり納得がいく。
つまり、福音派は神の国を作るのではなく、自分の王国を作ろうとした。
動機が神への愛ではなく、自分への愛に摩り替わった。
イエスの弟子が食事前に手を洗わないのを見たパリサイ派の人々が批判したように、神の戒めから外れて厳しい規則を作りたがるのは、結局は、イエスを十字架につける霊の仕業である。
よく福音派のクリスチャンから「霊性が高い」とか「低い」という言葉が出てきます。
もし本当に霊性が高いのであれば、セオノミーを拒否するはずがありません。
ポスト・ミレを拒否するはずがありません。
聖書を読めば明らかだからです。
では、なぜ拒否するのか、それは、つきつめれば「聖書なんかよりも主観だ」ということでしょう。
デボーションやアシュラム、瞑想、こういった運動は、グノーシス→ニューエイジに由来する。だから、一見するとクリスチャン的ですが、究極的には我々を「イエス・キリスト抜きの福音」に導くように思います。
イエス・キリストの福音とは、神の前における謙虚、罪意識、契約への復帰の希望、そして、契約人としての聖い生活を求めるものでしょう。
これは単なるスピリチュアリズムではない。何か霊的、別世界を求めることではなく、「地を従えよ」の命令の成就、積極的に世界を変える意識、働きではないかと思います。
こういう正統的な考えから、デボーションや瞑想は我々を引き離しているように思います。
2010年9月13日
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