水の上を歩くキリストの奇跡、実は氷の上だった?


科学で奇跡を説明しようとするのは愚か者の試みである。


水の上を歩くキリストの奇跡、実は氷の上だった?─米研究 (ロイター)

[マイアミ 4日 ロイター] 新約聖書にはイエス・キリストが水の上を歩いたという奇跡が記されているが、実はキリストは氷の上に乗っていたとする研究結果がフロリダ州立大学の海洋学者によって4日発表された。

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 研究結果によれば、イエス・キリストが生存した時期を含む1500年―2600年前の付近の気温は非常に低く、気温が氷点下になると、人の重みに耐えられるほどの厚さの氷が張っていたと考えられると結論づけている。

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 教授は14年前にも旧約聖書に伝えられるモーゼが紅海を切り開く奇跡を当時の風と海の状況から科学的に証明する仮説を発表。・・・

http://news.www.infoseek.co.jp/topics/society/research.html

この研究が愚かなのは、もし当時氷が湖面に張っていたならば、弟子たちがイエスに湖上で出会ったときに、舟をこいで向こう岸に渡ろうとしていたという記事を説明できなくなるというところにある。


しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。
すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。(マタイ14・24-25)

弟子たちは、凍った湖をこいで渡っていたのだろうか?

聖書の奇跡を自然科学の対象とすることはできない。

なぜならば、聖書の奇跡は、「神が超自然の方である」ということを示すためのものだからである。

神は、時間と空間の世界を創造され、そこに働くすべての法則を定められた方である。

「奇跡なんてあるわけがない。」と人間は言うが、「あるわけがない」ことをしない神は神ではないのだ。

ノンクリスチャンの作った思想において、神は、我々と同じ土俵で勝負する存在である。時間と空間とそこに働く法則というファンダメンタルの制約の中で活動するものとされたいる。

だから、彼らにとって神とは、「人間を完全にしたもの」でしかない。神は人間が30点くらいしか取れないところをいつも100点取るスーパースターである。

そんなのは聖書の神ではない。

聖書の神とは、そういった生活のファンダメンタルを創造された方なのである。

ここに創造者と被造物の間に大きな断絶がある。

この「創造者・被造物の区別」という概念はキリスト教の基本である。

TVゲームの登場キャラクターに対して、プログラマーは彼らの存在のファンダメンタルを設定する。プログラマーは、そのファンダメンタルをどのようにでも変更できる。どのOSに乗せるか、運動の方法、限界、どのような武器を使用させるか、などを自由自在に決定できる。

プログラマーは、これらのコンピュータの決まりに縛られない。彼は、キャラクターが持っている限界を超越している。コンピュータ内のキャラクターは、コンピュータの外には出られないが、プログラマーはコンピュータの外にいて、自由な時間に自由な場所に行って、何でもできる。

コンピュータゲームのキャラクターのように、被造物は、時間と空間と、そこに働く様々な法則に縛られている。

しかし、神は、プログラマーのように、それらのファンダメンタルには束縛されない。

奇跡とは、このことを示すために行われる。奇跡によって、神は、我々とは別の存在なのだということがわかる。

この被造世界は、神の世界の中でごくごく小さな部分でしかない。神は、我々の住む世界のほかに大きな世界を持っておられる。

その世界は、時間と空間というシステムとはまったく異なる世界である。

プログラマーにとって、コンピュータ内部の世界が、自分の生活においてごく小さな部分でしかないのと同じである。

コンピュータ外部の世界が、コンピュータのOSや様々なコードに縛られないのと同じように、神は被造世界の法則やシステムにまったく縛られない。

だから、奇跡を無理やり自然法則で説明しようとするのは愚かなのである。

 

 

2006年4月5日

 

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