格差反対論者こそいじめ社会を作り出している


社民党の党首などが、「いじめをなくします」と言いながら「格差を解消します」と述べているのを見るとかたはらが痛い。

学校でいじめがあるのは、「格差悪玉論」を信じる大人の影響を子供も受けているからである。

格差への敵意とは、「差とか違いとか個性を悪と見る」ことに等しい。

「みんな同じにならないといけない」という信念が、学校を支配しているので、私は、今学校に入りなさいと言われても行きたくない。

私が小中学生のころはそんなに違っていることに目くじらを立てる人はいなかった。髪を伸ばしているといろいろ言われたくらいだ。

しかし、今のような共産主義があらゆる分野にはびこっている時代に、学校など入るとたまったものではない。

ある有名な歌手が学校時代いじめに会ったと述べていた。おとなしいタイプだが、個性が強かったり、協調性がないといじめの対象になる。

どんなに社会で活躍する可能性のある人でも、精神的にあわせることを強制される空間に閉じ込められるならば、「個性的であることがトラウマになってしまい」、社会に出る前につぶれてしまう。

もったいないことだ。

今、アメリカンスクールを出た人や、自宅で勉強した人が芸能界で活躍しているのは非常によいことだ。

学校が唯一の選択肢ではないということに人々は気づくべきである。

学校に適応できないことは、まったく何の問題でもない。

今日の学校とは、デューイというヘーゲル主義者が作った集団主義宗教の神殿である。

そこでは格差こそ諸悪の根源である。

しかし、聖書では、神は格差主義者である。

天国では、所得に大きな差がある。もたない者で、努力をしない者は、もっているものを取り上げられ、もっている者に与えられる世界である。

心の持ちようによって(つまり、勤勉で前向きであるということ)、富める者はどんどん富み栄える世界である。

チャレンジせず、無為無策の者はどんどん貧乏になり、滅んでいく世界である。

しかし、学校教育の影響で、クリスチャンまでもがマルクス主義、ヘーゲル主義者になってしまった。

無為無策の者にもあわれみをかけるべきだ。罪を犯している人にも聖餐を与えるべきだ、などという考えに陥っている。

このような考えを続けていけば、この世界は怠惰者や犯罪者の天国になるだろう。

徹底的に考え方を変える必要がある。

 

 

2007年3月30日

 

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