ベニー・ヒンが君が代を斉唱させたことについて2


> 1)「救いと癒しは双子」という表現は神学的に正しいか?これを支持する聖書箇所は?

彼の意図は、「救いに続いて癒しが伴う」ということですが、これは正しいでしょう。どこが問題でしょうか。

救いの契約の中に入った民は、救いにあずかるのです。それは健康面においても。

クリスチャンが病気になっているというのは、「ある意味において」異常なのです。

病気になるということは、どこかに契約違反があると考えられます。

「主は、(契約に違反した)あなたのひざとももとを悪性の不治の腫物で打たれる。足の裏から頭の頂まで。」(申命記28・35。括弧内は筆者の追加)

「そのために、(御体をわきまえないで聖餐にあずかる)あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。」(1コリント11・30。同上)

しかし、すべての病気が契約違反から起こるとは限りませんが。(例:義人ヨブの苦しみ)


> 2)『「癒し」は「あがない」の「実」』について1)と同じ疑問。

これも上と同様に契約的に見て、癒しは救いですから、クリスチャンや旧約のイスラエルが癒しを受けるのは当然といえます。

メシアの到来の際には、「盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。」(イザヤ35・5)

メシアは人々の病を負う存在である。「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。」(イザヤ53・3)

それゆえ、メシアの時代は、健康・長寿の時代です。

> 3)「40年間医者にかかる必要がなかった」確かにモーセ五書に「医者」は登場しませんが、
> ではレビ記13〜15章の皮膚病・泌尿器疾患に関する衛生律法が与えられたのは何故か?
> 申命記7:12〜16は主への従順の結果として「すべての病気を取り除き」の約束が与えられたのだと考えます。聖書にはっきり「医者を必要としなかった」という御言葉が無い以上、「かかる必要がなかった」と断定は(および否定も)できないのではないでしょうか?

「40年間医者にかかる必要がなかった」というのは強調表現でしょう。

彼のこの言葉を聞いたときに、私は次の御言葉を思い出しました。

「この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。 」(申命記8・4)

つまり、主が試練の中でもすべての必要を満たしてくださったということです。

これには健康も含まれるでしょう。

しかし、じゃあ、実際にイスラエルには病人は一人もいなかったのか、というと、明らかにそうではありません。

罪を犯したために腫物で苦しんだイスラエルの記事(民数記21章)を読めば、明らかです。

まさか聖書の教職者が民数記21章を読んでおらず、それゆえに、「イスラエルは病人が一人もいなかった」なとど言うとは考えられません。


> 4)以上を踏まえて、「正統的な意見に変わって」としてよろしいものでしょうか?

私は「(この記事を読む限りにおいてだが)そのように見える」といっただけで、「ベニー・ヒンは正統的な立場に変わった」などと断定や宣言はしていません。


> 5)「君が代」事件について、会衆の中には富井先生の御説に賛同されない歴史観(天皇観・国家観)をもっておられる方、また「日の丸・君が代」に忸怩たる思いをもたれる方もおられたのではないかと推測します。それを、「ベニー・ヒンが「歌え」と言ったから、さあ、御唱和下さい」とした実行委員会スタッフの無謀さには危険を感じます。

たしかに。

人が罪と考えている恐れのあることをやらせることは聖書的ではありません。

「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。」(ローマ14・1)

ただし、私はこのHPにおいて繰り返して主張しているとおり、反天皇は以下の理由で反聖書的と考えます。

1. 聖書は上に立つ権威を敬い、既存の秩序を破壊すべきではない、革命を起こすべきではない、ということ。社会を変えるならば、既存の秩序の中で影響力を次第に拡大していく方法を取るべきこと。

2. 体制が変わって、共和制になったとしても、問題はまったく何も解決しないこと。聖書は環境決定論を拒否している。まず魂が生まれ変わって、自らの意志で積極的に神の御心に従いたいと願う人々の数が増えない限り、体制を変えても無意味であること。

3. 天皇制を調べもしないで、無知なまま、反キリストと決め付けることは「愛に基づいて行動すべき」クリスチャンのやるべきことではない。戦前・中の天皇の置かれた立場(歴史全体を通じてそうだったように、当時も、彼は政府の傀儡として利用されたのであり、憲法において名目的な主権者でしかないく、実質的権力はなかった。)を考慮し、ある意味において彼は犠牲者であったという立場に立つのがクリスチャンとして望ましい。

4. 天皇制の起源及び現在の皇室のキリスト教との関係を重視すべきである。クリスチャンが親キリスト教者を拒絶してよいのか。

> で、ベニー・ヒンの聖会ですが、例によって
>
> As the service seemed to draw to a close, Pastor Benny suddenly felt led to turn and walk down the steps toward the audience. He instructed those in attendance to join hands with those next to them on their row. Then he made his way up one aisle and down the other, praying for each row of people. As he made his way down the aisle, people fell back into their seats, row by row, as the presence of the Holy Spirit descended upon them.
>
> いつものパフォーマンスです。
>
> 私は、彼が、きちんと聖書に立脚した正統な教役者とは、どうしても思えません。

私は「きちんと聖書に立脚した正統な教役者」と彼のことを考えているなどとはいっていません。

よく、本文をお読みください。

 

 

2006年8月3日

 

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