これらの人々は、互いに姻戚関係や秘密結社など深い絆で結ばれていた。主要人物は、バルフォア、ブラヴァツキー、ウェストコットとホート、ライトフット、ベンソン、シドグウィックである。すでに述べたように、ウェストコットとホートとライトフットは、新しいギリシャ語テキストを作った。ベンソンは、イギリス国教会の最高位であるカンタベリー大司教になった。ヘンリー・シドグウィックは、ウェストコットの弟子であり、エドワード・ベンソンのいとこ、バルフォアと姻戚関係にあった。
1859年にウェストコットが幽霊会の幹事を務めていたころ、シドグウィックが会に加入した。ウェストコットがケンブリッジを離れると、彼が幹事を引き継いだ。リップリンガーは次のように述べた。
シドグウィックは、ウェストコットがケンブリッジ大学トリニティ校に在職している間、キリスト教にひどく幻滅した人々の一人であった。The Fabians, a history of communism and socialism in Englandの著者はこう語った。
この同じ時期に、ケンブリッジ大学トリニティ校の一群の若者たちが福音と正統的キリスト教信仰に対して失望し、その代用品として心霊研究と交霊術に走った。
1870年代から1880年代にかけて、心霊研究会のヘンリー・シドグウィックとウェストコット、ホート、ライトフットの間の絆は深まった。シドグウィックの姉妹メアリーはウェストコットの親友E・W・ベンソン(幽霊会)と結婚した。
シドグウィックは、ルシファー教徒を公然と名乗るH・P・ブラヴァツキーに強く「感銘を受け」、自ら「自動書記」を実験した。
ウェストコットとホートは、このオカルト主義者を、すでに他の友人とともに設立していた2つの秘密結社に招き入れた。これらの結社は入会が非常に厳しく、そのうちの一つ「使徒(The Apostles)」は12人に限定されていた。ホートは、ジョン・エレントン牧師への手紙の中でこの結社へのかかわりについて「私はあなたが『使徒』への私の加入を許してくださらないことを恐れています」と述べ、さらに「メンバーの一人は物質の存在も否定しています」と述べ、自らこの結社のいかがわしい性格を認めた。
シドグウィックは、1857年に入会を許された。The Founders of Psychic Researchの48ページに「この結社の精神は徐々にシドグウィックを飲み込み、その魂を支配するようになった。彼らの人生の方向性を決定付ける上で、それは大きな役割を演じた」とある。
もう一人のメンバーF・D・モーリスも、「使徒」が自分の人生を方向付けたと認めた。彼はそのために教授職を解かれた。ホートとの通信文から異端であることが暴露されたからだ。(ということは、ホートも異端として免職に値するのではないだろうか?)
1872年、ウェストコットは、『エラヌス』という名前のもう一つの結社を作った。シドグウィックは、バルフォアと並んでこの会のメンバーであった。そのもう一人のメンバーであったホートはこの会を「使徒の上級者会」と位置づけ、「そのもともとのアイデアはウェストコットのものである。メンバーは定期的に集まった」と述べた。1877年にホートの部屋が集会場となった。(Gail Riplinger, New Age Bible Versions (Munroe Falls, OH 1993), pp.415, 416)
読者は次の事実に注目すべきである。すなわち、ちょうどこの時期に、つまり、1870年代から80年代にかけて、ウェストコットとホートは、そのバチカン写本に基づく新約ギリシャ語聖書を作り、改定委員会を通じて密かにTextus Receptusを退けたことを。
1870年代に、シドグウィックは、「バルフォアの町屋敷」で行われていた交霊術の集会に積極的に参加していた。この集会には、「使徒」のメンバーたちが参加していたと思われる。
アメリカのクリスチャンのもとに届くブックカタログに記されたのと同じ名前が「使徒」と「エラヌス」の名簿に載っていることをどう評価すべきだろうか。
トレンチ、アルフォード、ライトフット、ウェストコットとホート・・・、これらは、新約聖書のギリシャ語テキストとして神学校から「標準的」との評価を得ている書物の著者である。
ウェストコットとホート、そしてその仲間たちの影響力がどれだけ今日のクリスチャンに対して大きいかこれでお分かりだろうか。あなたの牧師の書斎に行ってその本棚を見渡してみなさい。そうすれば、必ず彼らの著書を見つけるだろう。
その3