招かれる人は多いが、救われる人は少ない


まあ、どれだけ追い出されてきたことか。

教会、家庭集会、いろんな集会から。

結局、ディスペンセーショナリズムなのだ。

私はディスペンセーショナリズムに対してははっきりと言う。

それは間違いだ、と。

そして、ディスペンセーショナリズムこそ、現代の教会を無能化していると。

最近も、ある家庭集会から追い出された。

毎月、1回4時はじまりで、夕食を取りながらの集会だった。ユダヤ人とアメリカ人の夫婦が中心となって行われていた。全部英語。

しかし、やはり来るものが来た。ディスペンセーショナリズムに話が及び、「現在の世界はサタンに支配されているのか、神に支配されているのか。」という問題をめぐって、奥さんが強硬に私に反対した。

何を言っても無駄。

またか、という感じだ。

今のクリスチャンはディスペンセーショナリズムを正式に奉じていなくても、ディスペンセーショナリズムの教えに強烈に影響されている。

常識がほとんどディスペンセーショナリズムだ。

ダービーはものすごい仕事をしたものだ。

これだけキリスト教を破壊し、クリスチャンを無能化したのだから。

堅い堅い氷が世界の教会全体を覆っている。

それを溶かすには並大抵の努力では無理だ。

もう一つ、長年ともに歩んできた友人がおかしなことをいいはじめた。

「過去、救われたクリスチャンが一人でもいたのだろうか。」と。

「え〜、神様は誠実なかただから、福音の真理を保ってくださるというのは聖書の常識でしょう」というと、

「いや、私は自分でそれを納得しない限り受け取れない」という。

「○○さん、自分で納得するまで信じないというのは、自分の考えを優先しているのであって、クリスチャンの態度ではないですよ。聖書に書いてあればそれを無条件で受け入れなければおかしいですよ。」

こんな会話が続いた。

いっしょにやってきた教友が次々とおかしな考えに倒れていく。

フルプレテリズムに走った者もいた。

証拠を示しても無駄だ。

まずこういった人々は結論が先にある。

しかもその結論は聖書ではない。

我々にとって先にあるべき結論とは聖書だけである。

自分の考えが先にあるならば、もはやその人はクリスチャンではない。

異端だ。

謙遜を失い、正しい教えを失ったら、すべてを失うことになるから注意すべきだ。

招かれる人は多いが、救われる人は少ないのだ。

 

 

2008年7月3日

 

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