字義的解釈と象徴的解釈の区別17
<Q>
キリストの十字架によって旧約律法の何が廃止になって何が継続されてるのか。御意見の方をお願いします。
<A>
律法は一つも廃止されていないのです。
「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」(マタイ5・17)
動物犠牲、暦、祭りなどについては、廃止されたのではなく、「成就」されたのです。
つまり、動物の犠牲、暦、祭りという「影」が、キリストの犠牲、支配という「本体」に変わったのです。
「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」(コロサイ2・16-17)
ガラテヤやヘブルなどで、パウロが「律法は廃棄された」というような表現があるのは、動物犠牲などの「影」がキリストという「本体」に変わったということを表現したものです。
なぜならば、パウロはローマ書で、「それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。」(ローマ3・31)と言っているからです。
旧約時代に特定民族(ユダヤ)に与えられた律法は、新約時代に全民族に与えられたのです。
「また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼ら(すべての民族)を教えなさい。」(マタイ28・20)
それゆえ、民族的な戒めは、超民族的な戒めに代わりました。
例えば、農業祭など、北半球の自然に基づいた暦を南半球の自然にある民族に適用できません。
安息日はユダヤの農業社会の環境に基づく制度ですが、それは、イエス・キリストご自身が安息となられたことによって成就しました。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11・28)
イエス・キリストを信じる人はすでに安息の中に入っており、特定の日に休息と礼拝を限定する必要はありません。
先ほどの「こういうわけですから、・・・祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。」とあるとおりです。
律法の一点一画たりとも廃棄されておらず、それゆえ、律法を研究して、それらを我々現代の日本社会に適用することが必要です。
2007年1月25日
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