公共の神話から解放されない限り自由人にはなれない
いじめの大きな原因は、日本社会が得たいの知れない「公共の神話」に毒されていることにある。
「公共の場」とか「社会」は絶対であり、これに適応できない人間は欠陥人間として扱われる。
しかし、このようなものにはいかなる定義もなく、時代とともに変わるものであるから、適応できるかできないかは、その人間が欠陥人間であるかどうかと無関係である。
いじめをする人間はこのような「社会を絶対とする」新興宗教を背景に、その基準に合わない人間を探していじめを行う。
クリスチャン的な考え方は、こうだ。
我々には、神の法以外の価値基準は存在しない。
神の法に適合しているかどうかによって自分を評価する。もしそのような評価が許されない場であるならば、そこから出るべきである。
日本社会は、「信教の自由」が保証されているのだから、もしその学校なり職場なりが自分を認めてくれないならば、そこから出るべきである。
おわかりだろうか。
要するに、法の問題なのだ。
いじめの問題は、つきつめれば法の問題であり、どの法に支配されるべきかという問題だ。
得たいの知れない「世の中」とか「社会」というようなものの法に支配されるべきか、それとも、神の法に支配されるべきか。
神の法に従っていれば、必ず道は開けるというのが聖書が一貫して主張していることである。
だから、「この社会から蹴っ飛ばされたら生きていけない」などと恐れる必要はまるでない。
そんな無法な社会はこちらから蹴っ飛ばすべきだ。
奴隷になるか、自由になるか。
いじめがある環境などにいる必要はないから、とっととそんなところはやめて出てくればいい。
「社会不適合」という烙印が怖い?
そんな烙印押す人間はろくなもんじゃないよ。
異なる法体系の人々からの評価は自分にとってまったく何も影響しないと割り切れるかどうか、これであなたが自由になれるかどうかが決まる。
2008年4月24日
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