責任は双方向である2
律法は、「自分の責任を果たしたら、後は神にお任せする」という原則に貫かれているので、無用なプレッシャーから人々を解放する。
しかし、ヒューマニズムは、「秩序違反者であろうが、契約違反者であろうがどこまでも愛する」という教えだから、人々に際限ないプレッシャーを加え続ける。
神が期待しておられるのは、「法と秩序と愛の世界」である。
愛とは、「法と秩序」に従う意思のある者に対するものであって、「法と秩序」に従う意思のない者にまで加えられるべきものではない。
「神はサタンにまで愛をお与えになっている」という人がいるが、秩序破壊者である。
サタンは、神を亡き者とし、その秩序を破壊する「悔い改めないもの」である。
悔い改めようとしない「確信犯」を愛するならば、秩序は崩壊する。
では、人間の場合はどうか。と聞くだろうか。
「神はまだ反抗していた私たちを愛してくださり」とあるではないか、と。
人間はサタンに騙されたものであるから、あわれみを受けているのだ。
だから、我々は福音を与えられ、悔い改めのチャンスが与えられた。
しかし、もし我々が万事心得、すべてを理解した上で神を拒否し、神に反逆するならば、悔い改めのチャンスはもはや存在しない。
確信犯には「火の池」しか残っていない。
チャンスは、悔い改めて、神の秩序に戻ることを期待する人間だけに与えられるものであって、そこを積極的に破壊する者にまで与えてはならない。
神の国において、革命者には居場所はない。
異端者は革命者であるから、追い出す以外にはない。とどめておくと、パン種としてじわじわと教会を破壊する。
今の教会がディスペンセーショナリズムやリベラルに汚染されているのは、彼らを「ヒューマニズムの愛によって」受け入れたからだ。
異端は追い出す以外にはないのだ。
みかんの箱の中に腐れたものがあれば、全体を腐らせてしまうように、それを取り除かない限り、全体が汚染される。
間違った考え、聖書的ではない考えを受け入れる人間は、その人間自体が癌である。
2008年12月14日
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