なおも繰り返される再建主義に対する誤解に基づく批判



再建主義はアメリカにおいてオーバンアベニュー神学という別名をもって浸透しようとしています。
再建主義は、旧約聖書の律法の司法部分(罰則規定(石打などの死刑を当然含む)の部分)を現在にもそのまま適用させようとする立場ですから、ガラテヤ人への手紙や、ヘブル人、ローマ人への手紙(特に7章)に合致しないのは目に見えているので、長老派の本家のスコットランドでは異端宣告がなされています。
http://wiki.livedoor.jp/fundamentalism/comment/%BA%C6%B7%FA%BC%E7%B5%C1%A4%CB%A4%C4%A4%A4%A4%C6

いくつか認識にミスがあります。

1.オーバン・アヴェニュー神学は、再建主義ではありません。

再建主義は、既存のカルヴァン派と同様、アダム契約は、「業の契約」であり、それ以降の契約、つまり、「恵みの契約」とはまったく異なると考えます。

どういうことかといいますと、既存のカルヴァン派、たとえば、G・ヴォスなどが述べるように、アダムは、人類の祖先、契約の代表者として、神の御前に業を行わねばならなかった。

そして、彼から生まれる全人類を祝福の中に連れて行く責任を負っていた。しかし、彼は、業の契約を全うできず、失敗し、契約違反者になった。

だから、人類は全員、「業の契約に違反した者」として生まれてくる。これが原罪です。

生まれながらの人間は、アダムと契約的に一体であるとみなされ、それゆえ、滅びを相続する運命です。

そこで、神は滅びに至る人々を救うために、「恵みの契約」を立てられた。

これは、業の契約の失敗者が、信仰によって、恵みの契約に入ることによって、救いに至る方法です。

イエス・キリストは、アダムに代わって業の契約を守り、罪の犠牲を払い十字架で死なれた。それによって、業の契約の約束である永遠の命を相続した。

この業の契約の成就者に、信仰によって我々が連なるときに、我々も彼と同じように業の契約の成就者となれる。

だから、イエス・キリストにあって、クリスチャンは、みな律法を完全に守ったとみなされる。

我々は、生まれながらアダム族に属しています。しかし、アダム族に属している限り、呪いを相続する。

だから、アダム族からキリスト族に部族替えをしなければならない。

確実に破産する会社から、確実に成功する会社に転職するようなものです。

この転職を可能にする契約が、「恵みの契約」というものであり、それは、エデンの園の「原福音」から、ノア契約、アブラハム契約、モーセ契約、ダビデ契約、そして、キリスト契約に至るまで、ことごとく恵みの契約であり、業の契約は一つもありません。

キリスト契約に至るまで恵みの契約は歴史を通じて発展してきました。

そして、最終的にキリストが登場されることによって完成した。

我々は、このキリスト契約に入ることによって、救われ、業の契約を成就した者としての地位を得られ、永遠の命を得られる。

これが、伝統的なカルヴァン派の契約の考え方であり、再建主義も同じ考えです。

これに対して、オーバン・アヴェニュー神学は、業の契約はなかったと考えます。

すべて恵みの契約だったと。

この思想の萌芽が、ラッシュドゥーニーの著作にあるため、再建主義がオーバン・アヴェニュー神学であるとの誤解が生じておりますが、まったく違います。

もし、アダムが自力で律法を守るべく造られたのでなければ、キリストの十字架の意味はまったくなくなります。

聖書において繰り返し、キリストは第2のアダムであり、第1のアダムが失敗したことを代わりに成し遂げたと言われています。

人間は、律法を守れない失敗者、原罪を帯びた者であるがゆえに、その罪の身代わりがあるわけです。

それが最初から恵みの契約の中にいて、「律法を守らなくてもいい」立場におかれ、「信仰によって義認」される立場であったのなら、なぜに「その実を食べるそのとき、あなたは必ず死ぬ」と死刑宣告があったのか。

もしこのような律法を守れない場合に死刑になるということが事実であれば、今の我々も律法を守れない場合に永遠の死に至るということにならないか。

つまり、アダムが神から死刑宣告をされたのは「業の契約」にいたからなのだ。

業の契約とは、「守れば永遠の命、破れば永遠の死」だ。

それに対して、恵みの契約とは、「守らなくても永遠の命」だ。

なぜならば、イエス・キリストが身代わりに守ったから。

しかし、オーバン・アヴェニュー神学によれば、恵みの契約であっても、律法違反によって永遠の死に至ることがあるということになる。

アダム契約は恵みの契約ではなく、業の契約である。もしそのように考えられないならば、キリスト教のすべての体系が崩れる。

だから、オーバン・アヴェニュー神学は異端であり、我々はそれに対してアナテマを宣告する。

2.
再建主義は、「旧約聖書の律法の司法部分を現在にもそのまま適用させようとする立場」ではありません。

旧約律法は、イスラエルの民族に与えられた神の法の「原理」の適用だと考えます。

つまり、神の御心を旧約のイスラエルという時代的・地理的に限定されたある特殊な環境に適用した場合に生まれた律法がモーセ律法だったということ。

だから、神の御心が、現代日本に適用されるならば、当然古代イスラエルの場合とは違った形で現れる。

石打の刑をそのまま実行するのがよいのか、それとも、それとは別の方法がよいのか、それは、現代日本という時代的地理的に特殊な環境に合わせて考えなければならない。

ただし、その石打の刑に含まれている神の御心、原理というものに手をつけるようなものであってはならない。

なぜならば、「律法は不変」だから。一点一画たりとも落ちることはないのだから、律法の本質部分が欠落するような刑罰の方法を取るべきではない。

柔軟に適用すべきだが、原理に関しては絶対に欠落を防ぐべきだ。

このように我々は考える。誤解のないように。


律法のさばき(司法の規定(たとえば石打刑など))を現代に復活させようと考えている再建主義が、一方で、儀式律法を守ろうとしない(たとえばメシアニックジューやセブンズディアドベンチストのような、どちらかというとキリスト教の範疇に入れる人の多い(意見は分かれているが)団体が儀式律法を守り、逆に司法律法はそれほど重視していないのと比べても、いろいろと考えるところの多い再建主義と言う考え方なのである。

このブログの著者は、我々の書いたものをよく読んでおらず、我々の律法観を完全に誤解している。

この誤解は、2であげたように、「そのまま適用する」と考えているから起こっている。

繰り返しになるが、そのまま適用するのではなく、原理を適用せよ、と言っているのだ。

具体的内容は、時代と地理の文脈にあわせて変化させよと。

モーセ律法は、現代においてそのまま適用できない。

なぜならば、祭司制度が変化したからだ。

旧約時代において、祭司とは、レビ族に限定されていた。他の部族は祭司になれなかった。

しかし、新約時代において、祭司とは、キリストであり、キリストの体である教会である。

ペテロは、「あなたがたは王なる祭司」(1ペテロ2・9)であると述べた。

祭司制度が変われば律法も変わる。

祭司職が変われば、律法も必ず変わらなければなりませんが、(ヘブル7・12)

旧約時代において律法は「民族的律法」であったが、新約時代になって、「普遍的律法」に変わった。

なぜならば、祭司がレビ族に限定されなくなったから。

つまり、「超民族的経綸」になったということだ。

律法は、世界のあらゆる民族、あらゆる時代、あらゆる場所で適用可能なものとして存在するようになった。

だから、モーセ律法を「そのまま」適用させることはナンセンスである。

そして、安息日の律法については、これは、キリストにおいて成就し、「安息の本質であるキリスト」において我々は安息を得られることを示した律法であると考える。

だから、文字通り安息日を守るべきだとは考えない。

もし、守るべきならば、当時の暦制度を完全に復活させなければならない。

旧約時代に、1月1日は、月を見て、祭司が決めていた。今のような自動的に1月1日がやってくるような制度ではなかった。

だから、そこまでも変えるべきなのか、という話だ。

それだけではない。安息日の制度を復活させるならば、安息年を守るべきだ。

まるまる1年休む。50年に1度は2年まるまる休む。

現代世界においてこれは不可能だ。全員休んだら、高炉などはどうするのか。その間の電気の供給は?

安息日の制度は、農業祭と不可分である。だから、安息日を復活せよというのであれば、農業祭も復活させなければ首尾一貫していない。

だから、私は繰り返す。

律法は、普遍的な律法に変化したのだ。

4.
スコットランド長老教会から異端宣告されたというが、その宣言文を読んでほしい。

めちゃくちゃだから。

私の批判文があるから、それを読んで安易に結論を出すべきではない。

一言だけ言おう。

スコットランド長老教会は、カルヴァン派であることをやめ、アルミニアンになった。

だから、異端宣告は我々が彼らに対して出すべきだろう。

 

 

2009年11月25日

 

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