信仰義認が間違って説かれている
近代のキリスト教は、信仰義認を誤解している。
「律法から解放された」ので「何をしても自由だ。たとえ殺人を犯しても救われる」という。
違う。
救いとは、契約に入ることなのだ。
契約に入るということは、神の戒め、律法を力を尽くして守ることを誓約することを意味する。
モーセのもとでイスラエルは律法を示されたときに「私たちはそれらをみな守ります」と誓約した。
クリスチャンは、霊的イスラエルなのだから、この誓約をしなければならない。
新約時代になったら「誓約不要」になったというわけではない。
洗礼とは、この誓約なのだ。
旧約時代には割礼だったが、新約時代には洗礼、バプテスマになった。
「誓約不要の契約」がいかにばかげたものであるかは、国民契約を見ればわかる。
米国では市民権を得る場合に、まず「合衆国憲法を守りますか?」と「外敵がきたら防衛のために戦いますか?」と聞かれるという。
このような国家に対する義務を誓約できなければ市民になれない。
当然である。公民や市民とは、法律を守るという条件で与えられる権利である。
神の契約も同じである。
神の国を破壊するような人間に対してまで契約は寛容ではない。
「僕はクリスチャンになった。これですべての罪は赦されて天国に行ける。さあ、これからは恐怖なく罪を犯せるぞ!」
というならば、神の国に入れた意味がない。
クリスチャンになって永遠の命が与えられたのは、神の主権を認めてそれに対して全身全霊を傾けることを約束したからである。
神の国を意図的に破壊するような者にどうして神の国の門が開けられるだろうか。
聖書は繰り返し、「違法者は神の国に入れない」と警告している。
自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。
犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者はみな、外に出される。(黙示録22・14−15)
2010年4月25日
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