異なる思想を家に入れてはならない
契約の本質は、「分ける」ことである。
善と悪を分ける。聖さと汚れを分ける。救いと滅びを分ける。・・・
神の創造の業は、分けることを通じて実現した。
光と闇を分け、天と地を分け、陸と海を分けられた。
陸を作られた後に、エデンと他の地を分け、さらに、エデンの園とエデンの他の地を分けられた。
その分けられた特別な区画である園に人間を住まわせられた。
だから、神の契約とは、分けることを前提に成立している。
人間は、特別な地位を与えられた。
キリストによって、再びエデンの園に入ることができたクリスチャンも特別な存在である。
それは、他の人々とは違う。
神はクリスチャンを特別な区域に住まわせられたのである。
だから、クリスチャンが他の人々と同じ思想を持ってはならないのである。
思想的にクリスチャンは、ノンクリスチャンと別れなければならない。
聖書的ではないノンクリスチャンの考え方を受け入れてはならない。
聖書によって、聖い考えとそうではない考えを選別しなければならない。
同じ考えならば、契約の意味がない。クリスチャンになった意味がない。
だから、教育においてノンクリスチャンの思想を子供にそのまま教える親は、契約を破壊しているのである。
それは、子供をエデンの園から追い出す業に等しい。
サタンは、現在、多くの牧師や伝道者に「公共」という名の新興宗教を与えようとしている。
「キリストだけが救いだなどという狭い考えを捨てなさい。神はそんな狭量なお方ではない」と。
「ノンクリスチャンを追い出すような差別的な教えから、みんなを受け入れる寛容な教えに切り替えなさい」と。
ビリー・グラハムはこのサタンの惑わしに乗ってしまった。
FEBCも同じだ。
我々が学校において教えられた思想は、差別を悪とみる傾向がある。
「世界は一家、人類皆兄弟」と。
この教えは、公共を絶対善と見る。公立学校が提示する公共の環境に適応できない人間はだめな人間だとする。
学校のクラスに溶け込めない人間はいじめられる。
育ちも生活環境も違う人間を画一化することが善とされている。
このように間違った「調和」が幅をきかせている。
聖書の世界において基本的な集団とは、家庭である。
そして、聖書において、家庭は契約的家庭と非契約的家庭に分けられる。
この区別を撤廃してはならないとする。
しかし、国家主義ヒューマニズムは、実質的に学校を基本単位とする。
学校において、家庭間の思想的格差を撤廃しようとする。
このような教育を放置すると、次第にキリスト教は世界から消える。
家庭間の差が消滅し、家庭の中に異なる思想が入るからである。
家庭と家庭を区別する象徴は「門」である。
契約的家庭の門にはキリストの血が塗られている。つまり、契約的家庭はキリストによって贖われた家である。
それは、エデンの園である。
神がエデンの園を他の土地と区別されたように、クリスチャンは、自分の家庭を他の家庭から区別しなければならない。
異なる思想、区別を悪と見る間違った平等思想を中に入れてはならない。
自分と自分の家庭を聖別せよ。異なる思想を家に入れてはならない。
2008年7月25日
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