字義的解釈と象徴的解釈の区別18
<Q>
いわゆる律法主義とは何でしょうか、戒律主義とか神との立場の逆転、と言う事はわかるのですが、パリサイ派は具体的に何をおろそかにしていたのか。そしてイエスから見て何がだめだったのか。お願いします。
<A>
パリサイ派の間違いとは、戒律を熱心に守っていたことが問題ではなく、小さい規定にこだわって、大きなもの、本質を無視していたということです。
「目の見えぬ手引きども。あなたがたは、ぶよは、こして除くが、らくだはのみこんでいます。
忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。
目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。
忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいなように、あなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。
忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは預言者の墓を建て、義人の記念碑を飾って、 『私たちが、先祖の時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろう。』と言います。 こうして、預言者を殺した者たちの子孫だと、自分で証言しています。 」(マタイ23・24-31)
今日、律法主義とは、「細かく律法を守ろうとする態度」のように誤解されていますが、律法を細かく守ろうとする態度はけっして聖書において批判されていません。
我々の日常生活においても、例えば学校において校則をきちんと守る生徒は優秀な生徒として賞賛されます。
また、学問において教えられたことを正確に細かい点まで理解し、100点を取る生徒は優秀とされます。
これと同じように、律法を細かい点にいたるまできちんと守る人は、聖書において「神の人」であり、賞賛されています。
律法主義の問題は、このようなことにあるのではなく、「本質を忘れる」ということ、つまり、究極的には「神を愛さない」ということにあります。
パリサイ派の律法遵守は、その実、いろんな脱法的なことをやっていて、実際のところ彼らは律法を守っているのではなく、自分のきまりを守っているにすぎないのではないか、ということでした。
例えば、イエスが安息日に病人を癒すと、批判しました。イエスには「病人を癒すという愛の行為こそが安息日の表象的遵守よりも重要だ」という価値観がありました。
パリサイ人は、人を愛さず、まず神を愛していませんでした。
彼らの心は、サタンの心でした。人と神への憎しみがまずありました。
律法主義の基本は、サタン崇拝です。
これは、サタンに属する人々(ノンクリスチャン)が、あたかもクリスチャンであるかのように、宗教階級に紛れ込み、外面的には宗教人でありながら、その実はサタンの欲望を満たす手先となって活動するのと似ています。
このようなことは歴史的に、現在においても、無数に存在します。
2007年1月26日
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