聖書の国家観 2
今の国家において、教育は義務化されている。
その義務化のために公立学校が設けられており、教育は国民の税金で行われている。
しかし、教育とは本来家庭に属するものであって、国家によって強制されるべきものではない。
近代国家の教育とは、「国を富まし、強くする臣民を養成する」ためにある。
聖書において、教育とは家庭の権威である親に委ねられ、神の御国を作るために行われる。
国が教育を担うべきだなどどこにも書かれていない。
この世界は神の創造なので、神の国を建設するために親は子供に十戒と律法を中心とした倫理教育を行い、必要な学問を教えるべきだ。
教育の主導権はあくまでも両親に属する。
しかし、近代の国家は、擬似神になり、その教育権を横領し、自分のヒューマニズム的理念を子供に教え込むことを目指している。
神の似姿になるべき子供たちが国家の似姿に変えられている。
義務教育制度とシートベルト着用の背後にある思想とは本質において同一である。
すなわち、国が神に代わって人間に対して自分の理念を押しつけてもよい、というものである。
当然、国家が主導する教育とは、偶像教育である。
聖書で命じられている神の規範は無視され、いかに国の役に立つ人間になるかがテーマである。
よく誤解する人がいるが、思想教育または宗教教育ではない教育などこの世に存在しない。
教育の基礎には思想があり、宗教がある。ただ知識だけを教えるなど不可能である。
教師は何らかの自分の思想の文脈の中で知識を伝達していく。
だから、ノンクリスチャンに教育を丸投げするクリスチャンの両親は、子供をノンクリスチャンにしようとしているのである。
細かい知識の伝達にしても、クリスチャンの両親は子供に対して聖書的文脈の中でそれらを伝える必要がある。
今の学問はだいたい進化論に基づいてできているから、クリスチャンの両親は、仮に子供が生物学を学校で学んでいるならば、その子供に対して、帰宅後、進化論が間違いであることを教え、正しい生物観を伝える必要がある。
このようなフォローをしない両親は、神に対する子供の教育の責任を放棄した両親である。
国が横領してきた教育権を取り戻し、子供に国家の味が付かないように両親は注意すべきである。
2005年9月5日
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