故意の殺人には処刑でのぞむべきだ


今回の殺人事件、犯人は確信犯である。被害者は、以前から警察に連絡し、女性の保護を求めていた。

しかし、このようなケースでは、警察が常時張り付いているということができないので、保護することは難しい。引っ越すにしても、引っ越した家族を恨んで犯行に及ぶことがありうる。

このような確信犯のストーカー的犯行を防止する最大の方法は、死刑である。

故意の殺人を例外なく死刑にする以外にはない。

被害者と同じリスクを犯人に与えるのだ。

そうすれば、殺人者は、犯行を躊躇する可能性が高まる。

聖書では、故意の殺人は例外なく死刑である。

国家にはこのような権限が与えられている。いや、厳密に言うと、権限というより義務である。

神は国家に殺人者を処刑するように命令された。

「えっ、聖書では罪人を赦すように命令していませんか?」と思われるだろうか。

殺人以外では、被害者は刑罰の程度を自由に決定できる。

目をやられたら、目の損傷以下の刑罰を課すことができる。

刑罰を金銭による賠償にすることもできる。

しかし、死刑に関しては「贖い金を受け取ってはならない」と明記されている。

祭壇の角は、罪人の逃れ場であった。犯罪を犯した人は祭壇の角をつかんで刑を逃れることができたらしい。

しかし、聖書では、「殺人者は祭壇の角のとこらからも連れ出して処刑せよ」と命令している。

社会正義の観点からも、また、遵法的な市民を守るという意味からも殺人に処刑で臨むことが最善の策である。

これは、聖書のおきてであって我々に選択の余地はない。

死刑反対を唱えるクリスチャンは、明確に神の教えに意図的に反抗することになり、除名処分に値する罪であるから注意すべきである。

もし聖書に異なることが書いてあると証明できるならば、それを示して欲しい。

 

 

2010年2月11日

 

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