本当に再生している人はまれだ


以前TVでバチカンのカトリック本部の様子が報道されていた。

私が感じたのは、カトリックの人々は世界の国家に対して対抗意識を持っているということだ。

国というシステムに動かされないという気概を感じた。

昔、カトリック教会が国よりも権威を持っていた時代があった。

カノッサの屈辱は象徴的な出来事だ。

カノッサの屈辱とは、聖職叙任権をめぐってローマ教皇グレゴリウス7世と対立していた神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が、1077年1月25日から3日間、教皇による破門の解除を願って北イタリアのカノッサ城に赴いて許しを願った事件だ。(Wikipedia)

カトリックは今でも国とのライバル意識を捨てていないのだろう。

我々聖書的クリスチャンには、このようなライバル意識はない。

我々は、教会が国よりも優越することを目指していないから。

覇権争いをしているわけではないから。

我々が目指しているのは、キリストの支配であって、教会の支配ではない。

しかし、プロテスタントの教会の中にも、教会の覇権を主張する人々がいる。

国と張り合っているわけではないが、教会の勢力拡大を目指している。

自分の教会を千人教会にしたい、というような教会成長主義だ。

このような考え方の基本には、「神とのライバル意識」がある。

カトリックにしても、教会成長主義にしても、共通するのはこのライバル意識だ。

「え〜?教会成長は神様を礼拝する人々を増やすことを目指すのです」というだろうか?

私にはそう思えない。

彼らが説教で叫んでいるのは、「キリストの世界支配」ではなく「個人の天国行き」だけである。

「天国行きの切符を手に入れましょう」というのが彼らの「伝道」だ。

そして「律法は関係ない」といい、「世のことは世の人に任せて携挙を待ちましょう。まもなく再臨ですから。」という。

誰のために信仰をやっているのだろうか?

我々がいくら「世界をキリストの主権のもとに置くために活動しよう」と叫んでも、彼らは無視する。なぜならば、興味がないからだ。

彼らにはキリストの覇権など興味の対象ではない。個人の幸福が至上目的になっているから。

国であれローマ・カトリックであれ現代のプロテスタント教会であれ、キリストの主権拡大、つまり、神の御国を第一としていない教えの基本にはすべて、「神へのライバル意識」がある。

つまり、サタンの意識である。

「御国拡大?そんなことどうでもいい。自分が天国に行ければ。」

本当に生まれ変わった人はこういう考え方をしないはずだ。

再生されていない人間の心は、神を愛することができない。だから、神の目的をどうでもいいと考える。

それよりも、自分の王国の確立を目指す。

この現状から分かることは、本当に救われて、再生している人はほとんどいないということだ。

 

 

2007年12月1日

 

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