安息日の今日的意味
今日特定の安息日があると考えることはできない。
たとえば、土曜日が安息日であると考えることはできない。
なぜか?
もし旧約時代のように金曜日の夜から土曜日にかけて安息日があるとすれば、その他の旧約時代の暦の制度をすべて守る必要がある。
安息日とは、週日の制度にとどまらないからだ。
安息日を守る必要があるというのであれば、安息年を守らなければ首尾一貫しない。
安息年を7年に一度、50年に2年守るべきだ。
クリスチャン全員が、7年に1年間まるまる休むべきだ。
それだけではない。かつての農業祭も行うべきだ。律法に規定されているすべての供え物を文字通り行い、収穫物をささげよ。
そうしなければ、安息日を守ったことにはならない。
さて、もし日本がキリスト教国になり、国民の大多数がクリスチャンになった場合、製鉄所はどうするのだろうか。
7年に1年、会社を全部休業するのだろうか。
高炉を止めることになるがどうするのか。高炉は一度とめたら復活は難しい。
取引先の自動車会社に1年間鋼板を提供できなければ、その取引先は、他の会社から買うようになるだろう。
お分かりだろうか。
このような安息日の理解は、「すべての国民を弟子とせよ」というキリストの命令に違反するのだ。
農業国イスラエルの制度をそのまま万国の民族に適用しなければならないとする考えは、かえって世界の弟子化を阻害する。
我々は、律法をこのように考えてはならない。
キリストが来られて、安息日の制度は成就されたのだ。
キリストは、旧約聖書のすべてを成就するために来られた。
まだ取り残しがあると考えることは、キリストの御業に対する冒涜である。
キリストは、安息日の制度を成就された。
そして、律法は、新しい律法に変わった。
それは、バージョンアップされた律法である。
新約時代にふさわしい、脱民族的、普遍的、国際的な律法に変わった。
どうしてだろうか。
祭司制度が変化したからだ。
ヘブル書には、「祭司が変われば律法も変わらねばならない」とある。
祭司はかつて民族的であった。イスラエルのレビ族だけが祭司になれた。
しかし、キリスト以降、祭司は、民族的ではない。祭司は、キリスト、そして、クリスチャンが務めることになった。
ペテロは、クリスチャンに向かって「あなたがたは王なる祭司だ」と宣言した。
だから、今の祭司制度は、超民族的なのだ。
それゆえ、律法も、超民族的である。
民族的規定は、超民族的になった。
あらゆる国民が守ることができるように、その国や文化に合わせて変化させることができるようになった。
律法の本質をとどめながら、時代や風土、環境に合わせて、律法を適用する時代なのだ。
だから、安息日を特定の日とする必要はない。
安息日の基本、7日に1日、神のために礼拝をし、集会を持つことは正しい。しかし、それが何曜日かという規定はない。
クリスチャンになって救いの契約に入ることが安息である。
信じた私たちは安息にはいるのです。(ヘブル4・3)
・・・祭りや新月や安息日は、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。(コロサイ2・16-17)
2008年12月26日
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