神は真理のともしびを絶やされない


神は圧倒的大多数の人々が間違った道に進んでいっても、必ず一筋の光を残しておられる。

これが聖書において「ともしび」という言葉で表されている。


神のともしびは、まだ消えていず、サムエルは、神の箱の安置されている主の宮で寝ていた。(1サムエル3・3)

しかし、ツェルヤの子アビシャイはダビデを助け、このペリシテ人を打ち殺した。そのとき、ダビデの部下たちは彼に誓って言った。「あなたは、もうこれから、われわれといっしょに、戦いに出ないでください。あなたがイスラエルのともしびを消さないために。」(2サムエル21・17)

彼の子には一つの部族を与える。それはわたしの名を置くために選んだ町、エルサレムで、わたしのしもべダビデがわたしの前にいつも一つのともしびを保つためである。(1列王記11・36)

しかし、ダビデに免じて、彼の神、主は、エルサレムにおいて彼に一つのともしびを与え、彼の跡を継ぐ子を起こし、エルサレムを堅く立てられた。(1列王記15・4)

主は、そのしもべダビデに免じて、ユダを滅ぼすことを望まれなかった。主はダビデとその子孫にいつまでもともしびを与えようと、彼に約束されたからである。(2列王記8・19)

主は、ダビデと結ばれた契約のゆえに、ダビデの家を滅ぼすことを望まれなかった。主はダビデとその子孫にいつまでもともしびを与えようと、約束されたからである。(2歴代誌21・7)

歴史の中において、神は必ず「残りの民」を残され、真理の継承がとだえないようにされる。

ダビデ王朝は、神のともしびであったが、それも堕落してしまい、ついに捕囚にあうのであるが、しかし、マタイ1章の系図では、ダビデの子孫にこのともしびが受け継がれていたことが分かる。

人々がまったく忘れ去ったところから、そのかすかな光は現れた。

ヨセフとマリヤである。彼らは実は王族の子孫であった。

神は、人々が堕落し、真理が消えてしまったような中から、突然思いもかけないところから、光を出される。

イエスは、田舎町ナザレから出られた。

モーセが見た「燃える柴」は、神が絶やされることのなかった「ともしび」である。人々が奴隷状態の中にあって、自分たちが選びの人アブラハム・イサク・ヤコブの子孫であることも忘れかけていたときに、忽然と現れた聖霊の火である。

神は、真理の流れを必ず守られる。

神が選んだ人を通じて、真理は必ず復活する。

聖書の中に登場する「ともしび」や「燃えさし」は、神がいつの時代でも真理を守っておられることを象徴している。

この小さな火は、選びの時に、周りを燃やし尽くす巨大な炎に変わる。

 

 

2006年3月13日

 

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