真のクリスチャンは御言葉に反する雑音を耳に入れない
創造の前に神しか存在しなかった。
いかなる世界も、空間も時間も存在しなかった。
神は無から世界を創造された。
これが聖書の教えることである。
となれば、神をも裁くための基準など世界に存在しないことがわかる。
ローマ・カトリックは、まず「自然秩序」がはじめからあったとする。神の創造とはその秩序の中において行われたとする。だから、この世界の中において神が権威ではない分野が存在するということになる。
しかし、聖書は、神は世界を無から創造されたとするのだから、神が至高の権威ではない分野など存在しない。
あらゆる領域において、神は主である。
しかし、自然秩序が究極であるならば、神は、自然秩序の中の一人の役者になる。
つまり、自然秩序というOSがはじめからあって、その中で動くソフトのようなものである。人間や天使や動物もその中のソフトである。神と人間が違うのは、レベルの違いだけである。人間が50点しかとれないが、神は100点をいつも取る完全者だ、と。
しかし、聖書は、そのように教えていない。
神は世界を無から創造されたので、自然秩序を超越している。コンピュータで言えば、OSの外にいて、OSそのものを作った人間のようなものである。
だから、人間がOSの約束事に縛られず、いつも、それを書き換えることができるように、神が自然秩序に縛られることはない。
神は世界のあらゆるものに対して常に主権者であり、それらのものから超越している。
神は試験を受けて常に満点を取る優等生ではなく、神は試験を与える者である。
これが、「創造主−被造物の区別」と呼ばれるものであり、聖書的キリスト教に独特のものである。
神の世界において、被造物の論理はまったく通用しない。徹底して超越しているので、我々は神を評価したり、裁いたり、疑ったりすることはまったくできない。
神を評価したり、裁いたり、疑ったりすることは、最初から間違っている。
オーディションの会場に来た主催者を無理やりオーディション候補者の中に入れてテストするようなものである。
選ばれなければならないのは人間である。
神を疑ったり、御言葉を疑う人は、オーディション候補者の分際で、主催者を審査しはじめる不届き者のようである。
人間にとって、唯一残された選択は、神を信じることである。ただやみくもに信じることである。何が起ころうと、誰が何を言おうと、信じることである。それしか被造物に許されていないのである。
「盲信ではないのか?」と尋ねる人がいるかもしれない。
被造物が主権者である神に対するには、「盲信」以外に方法はない。
ただ言われたとおりにする以外に正しい態度はない。
処女降誕を受け入れたマリヤのように、「ありえないこと」でも「信じられないこと」でもただ従順に信じることである。
「え〜、そんな処女が子供を産む?信じられません。」という人間は、そこにおいて神の上に立って神の言葉を評価しているのである。
その時点において、彼は無茶なことをしたのである。
世界で最も高い山よりも高い山に登って山頂を見下ろしたのである。
世界で最も高い山よりも高い山など存在するはずもないのだから、彼が見たと思った山頂は、実は幻覚なのだ。
御言葉を疑う人間が評価した「神」とか「御言葉」は、実は神でも御言葉でもないのだ。
だから、そんな人間の妄想に付き合うのは時間の無駄である。
今、世界中の無数の教会、神学校、ミッションスクールが、サタンに騙されて、「神の評価者」になっている。つまり、彼らは王服をまとっていると錯覚している裸の王様である。
これらで活動している牧師や神学者、教師たちと、聖書信仰を持つ我々とは話が合わないので、つきあっても時間の無駄である。
かえってサタンに隙を与えることになるから、彼らから離れるべきである。
成長したクリスチャンは、雑音を耳に入れない技術を習得している。
御言葉に矛盾した思想や教えをシャットアウトするための訓練ができている。
しかし、未熟なクリスチャンは、それらに耳を貸して痛い目にあうのである。
彼らは、いつもぐらぐら揺れ動いている。
ノンクリスチャンの時代とは違うのだ。
クリスチャンになれば、無数の攻撃にさらされることになる。その攻撃の主なものは、「非聖書的考え」という名の雑音である。
クリスチャンになっても、ノンクリスチャンと同じ生活を送ろうとしている人がいるが、無理だ。
クリスチャンになるということは、海水魚が淡水魚になるようなもので、まったく違った世界に住む住民となったことを意味する。
だから、ノンクリスチャンに通用する様々な規則は、我々には無力である。役に立たない。
我々はノンクリスチャンの意見を受け入れるときに、淡水魚が海に放り込まれた時のように、死んでしまう。
信仰の世界で生き抜くには、雑音を耳に入れずに、ひたすらにただ神の御言葉だけに信頼しとおすしかない。
聖書的ではないあらゆるものに目をふさぎ、耳をふさごう。そして、聖書的なものだけを受け取って、それをひたすら握り締め、ただそれだけにすがろう。
自分はトンネルの中にいると考えよう。周りは闇である。周りで何が起こってもそれは闇の世界のことであって、そんなものに注意を払う必要はない。ただ、まっすぐ前に見える光を目指し、そこから聞こえる指示だけに従おう。
上海に行ったときに、ワンミンタオという、有名な地下教会の指導者と会った。
地下教会とは、共産党の指導下にある公認教会では、神を正しく礼拝できないという理由で、自主的に開かれた教会である。
彼は高齢でその後亡くなったが、別れ際に私たちに「もっと神様を愛することができるよう祈ってください。」と言った。
御言葉と反するいかなるものにも耳を傾けず、ただひたすらに御言葉に従い、神を主としてあがめ、信じることこそ、神を愛することである。
彼はそのことを生涯を通じて実践した。
2004年8月12日
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