対神的罪と対人的罪を区別しよう


今日、司法律法は廃棄されているとスコットランド長老教会は言う。

パウロは姦淫を犯しているコリントの教会員を除名せよといい、処刑せよと言わなかった。だから、今日では司法に関する旧約律法は廃棄されているのだと。

これは罪と刑罰について概念的に混同しているからだ。

罪と刑罰は次の2つの領域がる。

(1)神に対する罪と、それに対する刑罰
(2)人に対する罪と、それに対する刑罰

十字架において神に対する罪と刑罰は終了する。

だから、クリスチャンはけっしてさばかれることも、永遠の刑罰を受けることもない。

しかし、人に対して犯した罪は法律で罰せられる。だから、どんなに死刑囚がキリストを信じて罪許されたとしても、社会的な償いまで消えてしまうわけではない。

アメリカの開拓時代、牧師が死刑囚に悔い改めを求めて、イエス・キリストの贖いを信じた者もいたが、しかし、それで刑が消滅してしまうことはなく、絞首刑に処せられた。

教会は、イエス・キリストの犠牲による贖いが個人に適用されるかどうかを管理する立場にある。

だから、教会戒規を受けた人は、「神に対する罪」のゆえに、教会から除名され、その結果永遠の刑罰を受ける。キリストの贖いは無効である。

コリントの教会の姦淫者は、頑固に悔い改めなかったので、パウロは除名せよと命令した。

しかし、後で悔い改めたので、再び教会に招かれた。

神に対する罪は悔い改めによって帳消しになるのだ。

しかし、姦淫にはもう一つの側面がある。人に対する罪と刑罰である。

姦淫は配偶者に対する罪である。それゆえ、配偶者がもし司法に訴えるならば、その人を処刑する権限があった。

しかし、その権限も、配偶者の一存で、無罪にすることも可能である。

ヨセフは、身重の婚約者マリアを内密にさらせようとした。つまり、秘密に離婚しようとした。

人に対する罪と刑罰を決定するのは、その被害者である。国家は、その刑罰を執行する役目を与えられている。

パウロは、ローマ13章において、為政者はむやみに「剣」を帯びていない、と述べた。もちろん、剣とは処刑の権限を表す。

パウロはけっして処刑制度を否定していない。

だから、パウロがコリントの教会員に対して、「姦淫者を除名せよ」と言ったことが必ずしも「姦淫罪への死刑罰は廃止された」ことの証明ではないのだ。

スコットランド長老教会のような解釈をして、司法律法が廃棄されたと主張するならば、我々は、政治的社会的分野において聖書の教えを廃棄することになり、「律法の一点一画たりとも廃棄されない」というイエスの御言葉や「信仰は律法を確立する」というパウロの言葉を無にすることになるのである。

神への罪と、人への罪を区別すべきである。

そして、聖書は、神への罪だけではなく、人への罪の対処法をも教えていることを認めるべきである。

そうすることによって、今日の社会倫理的混沌への解決に向かう一つの道筋を人々に示すことができるだろう。

 

 

2004年7月30日

 

ツイート



 ホーム

 



millnm@path.ne.jp