新カント学派とキリスト教
> 日本法哲学の一大勢力は,トマス主義ですが(なぜか九州大学
> 系に多い),…
> プロテスタントの実定法解釈学者は結構いるのですが,プロパー
> 法哲学者は,なか
> なかいません。いてもリベラルでしょう。
不思議ですが、なぜ日本の法哲学の主流がトマス主義なのでしょうか。
そんなに日本においてはカトリックが力を持っているわけではないのに。
明治時代あたりに学界をリードしたカリスマ的な先生がたまたまカトリック信徒だったということなのでしょうか。(九州大学に多いのは、やはり、九州にキリシタンの子孫がいるからでしょうか?)
法哲学の分野については分かりませんが、純粋哲学の分野において新カント学派は、実証主義に傾いており、「カントに帰れ」とのスローガンは、「観念論の復活を目指した」というわけではなく、むしろ実証主義に偏っており、「いかにして人文科学から信仰を排除するか」という点に焦点を置いていたと聞いています。
以前、当為の問題が話題に上った際に述べたように、カントは人間の良心に信頼した理想主義者でした。
カントが目指していたものとは、「人間から出発して、人間に帰る」運動において、いかにして道徳というものが存在できるか、つまり、キリスト教のように聖書啓示から出発するのではなく、純粋に人間の人間による人間のための道徳というものが欲しかった。
カントは、生得的なものを非常に重視して、「人間のうちに生まれながらに宿っている良心に従うべし」を規範としました。
しかし、カントが作り上げた徹底した人間中心の思想は、その人間中心性のゆえに、内部から崩壊しました。
つまり、「神」を除外したために、世界は科学法則が持つ必然的な「拘束」にがんじがらめに縛られることになった。カントは人間は自由だ、というが、人間も世界も「法則」によって拘束されている。超越者がいれば、その法則を超越して働くことができるが、その首を切ったのですから、法則を超えることは「理論的に」不可能になった。
実証主義は、実際に、人々の幻想を徹底的に破壊しました。
進化論もそのうちの一つですが、観念論やロマン主義の理想論を粉々に粉砕した。
カントやヘーゲルが作り上げた体系は、「思弁的」として退けられ、「事実にのみこだわれ!」との実証的科学を尊重する人々は、どんどんとカントが残そうとした「良心や当為の空間」を狭めた。
「神の首を切った世界」において、どんなに「援助交際はよくない」と叫んでも、「超越者がいない以上、誰が、援助交際を禁じるのか。」と言われてもしかたがない。
法則は冷徹な事実であり、それが常に働くならば、「道徳」に正当性はなくなる。あるのは「強い者が生き残り、弱い者は滅亡する」という原理だけ。
また、 「人間は欲望があり、その欲望を発散することが善である。なぜそれを抑えなければならないのか」というような具合になってくる。
いくら、カント主義者が「人間は欲望に勝って、良心に従うべきだ。」と叫んでも、「その良心が正しいとどうして分かるか。あなたは、宗教や道徳などについて人間はどれが正しいか科学的に認識できないといったではないか。」と言われてしまう。
このような法則や事実にこだわる人々の立場をドーイウェールトは、「ヒューマニズムの科学理念」と呼んでいますが、近代の哲学においては、この「ヒューマニズムの科学理念」が、人間の自由を求める「ヒューマニズムの人格理念」を圧迫し、ほとんど絶滅した過程と見ることができるとおもいます。
このヒューマニズムの科学理念は、人文科学をおびやかしました。
自然科学は、例をとりだしてそれを分析し、そこから普遍的に共通する法則を求めるのですが、人文科学はそのような手法では、「様々な社会事象も人間も、すべて個性を失って単純な原理だけが求められ、存在意義を失う」ことになります。
たとえば、自然科学において人体の組成を調べると、人間の体は水、カルシウム、亜鉛、…などから成り立つとなりますが、この手法を採用すれば、人文科学は、独自の知識を得られない。
人文科学は、Aという人間とBという人間の個性に着目するのですが、自然科学的分析的、還元論手法を使えば、AもBも、「物質の集まり」にしかならず、無個性化します。
それで、人文科学は、還元論的にではなく、事物の関係に着目する「文化歴史的」手法に基づく科学だということに自分を定義したのです。
「人文科学は、事実に関するこの進化論的解釈に抗議しはじめ、自然科学の方法とはまったく異なる研究方法を要求した。つまり、『文化的・歴史的』方法である。これは、普遍的な法体系を確立するのではなく、個々の関係を厳密に理解することを求めるのである。」(Herman Dooyewerd, 'Intellectual disarmament of Christianity in Science' in 'Christian Philosophy and the Meaning of History', Edwin Mellen Press, p. 89)
この人文科学の方法論の基礎は、カント後のドイツ観念論が提供した。しかし、ヘーゲルによって宗教がかった考えが学問の様々な分野に影響を与えて、科学が異常化するのを見た実証主義者が起こした反乱後の時代であったため、もはや、人々はドイツ観念論やロマン主義に帰ろうとはしなかった。
「しかし、もはや観念論やロマン主義哲学は不要だった。人文科学には特殊な科学的思考方法の独特な特性があるということを認識することが求められた。」(同)
ここで新カント学派が登場するわけですが、この流れから見ても、新カント学派の問題意識は、「ヒューマニズムの人格理念」の回復にあるのではなく、神抜きの認識の方法を徹底し、ヘーゲルなどが陥った「思弁性」や「信仰」を徹底排除することにありました。
有名な新カント学派の論者ハンス・ケルセンは、「正義という自然法的概念」を捨てました。
「立憲国家という伝統的なヒューマニズム概念は、その思想のうちからすべての価値論的内容を失った。というのも、ケルセンは国家と法を形式論的に認め、法を去勢し、それらを論理的判断の体系に変えてしまった。この体系においては、論理的形式だけが一定であり、超専横的であった。」(同)
つまり、ヒューマニズムに最後に残された「ヒューマニズムの人格理念」のよりどころである、「正義」とか「法」とか「(キリスト教に対抗できる)倫理」というものすら否定され、単なる形式だけが支配する世界ができあがった。
フッサールの現象学は、一切の価値判断を加えずに、それを括弧に入れて、その現象のみを見るべきだ、と説く徹底した実証主義精神に貫かれた考えでした。
この考えは現代人に強い影響を与えています。
現代とは、このように、キリスト教の代役を務めようとしたカント及びドイツ観念論が徹底して破壊され、その代わりとなる世界観を人類は何も見出していない状況といえると思います。
とくに、最後に生き残った「ヒューマニズムの人格理念」の末裔である共産主義が崩壊し、その理論を実践している現代の世界の様々な政府の失敗において、今や、ヒューマニズムの側からの世界観は期待できず、ヒューマニズムは、もはや風前の灯であり、残るは、真空状況以外にはない。
これは、学生運動を体験した世代が強烈に意識する問題ではないでしょうか。
学生運動をやった結果、「世界はそんなふうには出来ていない」ということに彼らは気付いた。
ここに全共闘世代の挫折があると思います。
この運動の後においても、彼らはまだそれに代わるものを見つけることができないでいる。
ある人は、宗教にそれを求めるかもしれないが、ほとんどすべての宗教は「近代の厳密な哲学的課題」を乗り越えるものではなく、単なる「神秘主義」「非合理主義」です。
私は、ヒューマニズム哲学が「キリスト教のアンチテーゼ」として登場した以上、キリスト教に対抗できるものを提供できないということが分かったならば、潔くキリスト教に帰ればよいと思うのです。
近代ヒューマニズムは、キリスト教からの逸脱であり、その誤謬・欠陥が明らかになった以上、聖書に立った政治・経済・文化の基礎を作る以外に残された道はありません。
2004年6月17日
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